子供の与えてくれる課題

起きることは全部起きる。
これは年々、認めること。

子供と沖縄旅行した。
この一大イベントの中に、起きるべき現象はあらかじめ折り畳まれていたのだろう。
そこで見るべきこと、感じるべきこと…
旅行中だけでなく、帰ってきてからも。
オムライス事件もまた、予定されていた出来事だった。

楽しいだけでは終わらない。
楽しいだけでは学ぶことが出来ないから。
楽しいだけで学べる人は良いけれど、自分はそんなに頭が良くない。

明らかに、子供は無自覚的に挑発していた。
「これ、おいしくない」に続いて、「おうちのごはんは、めっちゃおいしいよ」と畳み掛けてきた。「ほいくえんのごはんも、めっちゃおいしい」
月に一度か二度しか会えない、彼の世界の〈アウトサイダー〉である自分には、この言葉はとても堪えた。
それは同時に、甘えの表現、また、どちらの意志が通るかという、力比べでもあったことだろう。
この子供が「おいしくない」という理由で、心の籠った食事に手をつけないのは、初めて見ることだった。
それに対して私は不覚にも感情的に反応をしてしまった。

こんな出来事が起きるのも、自分の不見識を私自身に気付かせるために必要だったのだ。
そうでなければ、「子供を楽しい旅に連れて行った良い父ちゃん」という自己評価をして終わりになったに違いないが、子供のために私が学ばなければならないことはまだまだあるのだから。

口で言うほどには愛と愛情の区別がついていない自分、子供からの愛情(この場合、オムライスを喜んで食べてくれること)に依存している自分に気付いたことで、この次はもっと注意深くあろうと思うようになった。
私の場合、この次に子供と一緒に食事できるのは半月から1ヶ月先のことになるだろうから、一回一回がとても大切に思われるのである。
子供が喜んでくれることも、自分が子供を喜ばせることが出来ることも。

2日ほどして、前妻から「またとうちゃんのおうちにとまれそう」と子供が言っていると聞いて、胸を撫で下ろした。
太陽のように照らす父ちゃんになりたいものである。

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