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2024年新年初感 今年も宜しくお願い致します。

昨年も大変お世話になりました。新年も何卒よろしくお願い致します。

2024年新年初感

ーアドリブこそ生命ー“無“は借り物ではやってこない、、かも。

幸田さんが去年、開催されたセルフヒーリングのクラスで面白いことを言っていました。

ドラマの筋書きは役者のアドリブでは、変わらないじゃないですか、、あれだと思うんですよ、人生も。

ある意味私たちは大本の根源から湧いて出たもの、その道は、私達が認識できる小さな小さな領域で、なにをしようと、どれだけアドリブをつくしても、なにひとつかわらないんじゃないかと。(そうおっしゃる壮大な背景があるのですが、一部抜粋ですみません)に

なぜかとても腑に落ちるものがありました。

思えば身体自体がアドリブの宝庫。二度と同じ治療はおきないし、二つと同じプロセスはない。でも、その背景、全体性と一体である身体の動きはどれだけ奇想天外であろうと、健全の現れ。

ー病という覆いの背景に、そのもの自身が現れるー今の身体の勉強で初めて渡されたテキストのタイトル“オリジナリティの出現“というのが、今も色褪せない印象として残っているのですが、

一分一秒今をを問い続ける、技術だけでなく、あり方、意識の置き方を問い続ける身体の仕事に終わりなく惹かれ続けるのは、生きることの自由がそこにあるから、、、アドリブの、、、幸田さんの(これまた奇想天外な)発想からそんなインスピレーションを得ることができました。

私は、何かふと降りてきた些細な些細な感覚を拾い上げた時、またそれが3日も4日もかけて、しっくりくる表現になって現れるのに出会う時、毎回これ以上ないという至福を経験するのですが、、この話を聞いて、そこで生まれたーアドリブーそのものよりも、そもそも何が出てきても受け入れる、それが許されている、、存在の源の手のひらで遊ぶ自由と安心、そこに至福を感じているんではないかと、染み入るようにそう感じたのでした。

自分を傷つけたものによって癒されなさい

という、大好きな師の言葉も
道徳的な意味でも、偽善的な努力を促すものでもなく、すでに癒されているのだから、その葛藤を手放しなさい、というふうに捉えると意味合いは全く違います。

一つ一つ消えていく、そこにスペースがひろがっていく。

無の境地っていうのは、崇高な無のイメージ、何か人が陶酔するために作り上げてしまった“ワンネス“とは対極の、、

日々日常から湧いてくる問いや、、(直に感じたもの、習ったものやジャッジメントなしに)、無いどころか有る、有る、有る、有るを手探りに探求し続けて、もうお手上げ!というところで、ふいに招かれる地じゃないか、、そんなふうに感じるようになりました。もちろん、生まれたての赤ちゃんはきっとそのものだろし、そんなことをしなくても、そこに招かれる人もあるのだろうけれども、、、

私は泥臭く愛に包まれたアドリブを生きる、そんなふうに今年を始めていきたいと思います。

新しい年もなにとぞ宜しくお願い致します。
2024.1.1

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