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献花2

自分の「見えたように」が何か、追求して気付いた。それは誰もがわかる「見えたように」を再現しようとするとどこかへ逃げてしまう曖昧なもので、単純に視覚的な情報だけで構成されているものでもない。そのとき聞いていた音や何かの匂い、風の感触、あるいはまるで関係ないがその時思っていたことなど、すべての感覚で捉えていた何かを含んでいるように思う。
その感覚を再現するのに必要なものは一体何か。これに気付いてからの苦悩が表現することの苦悩ではないかと思う。詩や短歌俳句、音楽など凡そ表現といわれるものは同様だろう。
 
造形とはある種のこだわりだ。
例えば瓶というものにこだわってみる。ガラスという素材の見え方、それが重なったら、水が入っていたら、花が挿してあったらどう見えるのか。そしてより純粋で直截な表現のためにどこまで形態を要約できるのか、という純粋に造形の営みである部分と、それらが作り出す組み合わせを見たときに何を想起するのか、考えずにはいられない部分とがある。この双方によって作品は生み出される。
 
「献花2」では、前回紹介した「献花」の画面大半を占める冷たい空気感と対を成すような光を帯びた空間を作りたかった。その中の一部分に花の色を思わせる色彩があるが、花はすべての瓶に活けられてはいない。倒れている瓶は空だが、立っている瓶には水が入っている。そこに花をささげたい、そう思った。全ての瓶には活けられないが、それをいま必要とするところへ活けたい。
鎮魂であり、賛歌でもある。暖かさを湛える色彩は救いの象徴であってほしい。
 
全てを疑わざるを得ない今の世の中にあって、一体どんなものが希望の形たり得るのだろうか。この疑問を絵という形にすることが、今感じる自分自身の現実=「見えたように・見たまま」の解釈にならないだろうか。

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