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子どもの目が点になるとき。「ほめる」現場のダダイズム/本田先生の部屋

絵画教室 アトリエ5の小学生/中高生/大人クラス担当・本田雄揮先生による連載。vol.2は「褒めること」についてのコラムです。

〔BGM〕

※この連載はBGM付きです。いつもより小さめの音で流しながら読んだり、読んだ後の考えごとのお供にどうぞ。

作品をほめられるのは誰にとっても喜ばしいものです。ほめられた時の「嬉しい!」という気持ちは代え難く、次作への意欲となり、成長へと繋がっていきます。ですので私は基本的に指導においては「ほめる」ことを大切にしています。また絵画教室としても、学校のように成績表がありませんので、言葉でしっかりと伝えることは必要不可欠ですし、その中で「ほめる」ことが担う重要性は大きい訳です。そんな中、今回は私が現場で感じた「ほめる」にまつわる話をしていきます。

「ほめる」のオーダーメイドとレディメイド

しかしながら、実際この「ほめる」は中々難しい。何でもかんでも「よくできました!」と言えばよいものではありません。作者の心情や年齢や性格、今までの制作の変遷や経験値や到達点、作品のポイントはどこかなどを踏まえ、より適した言葉と声のトーン、タイミングを選び、伝える。そう、「ほめる=成長に繋がる言葉」には同じものがないのです。何が必要なのかが全てが違うのです。「ほめる」は一回一回違う注文に合わせての手作り、オーダーメイドでなければならない。

とはいっても、全てがそんなに上手く行くはずもないのです。毎回オーダーメイドできる訳でもない。ほめたいけど言葉が出てこなかったり、タイミングを間違えたり。

私も申し訳ないですが「よくできました!」的なほめ方を長く繰り返していたこともありました。省みてみると、要するにそれらは総じて「レディメイド(既製品)な、ほめる」なのです。「ほめよう」という気持ちが先行して言葉が上滑りし、さらにその言葉もどこかで聞いたことあるようなもの、誰にでも当てはまるものだったりして。私も人の子ですから「うまくほめてあげたい!」と思い「こうほめると伸びる!」的な情報を集めた時期がありました。そしてそれを鵜呑みにし、流用する訳です。そりゃうまくいかんだろう。既製品をタグ付いたまま与えて「似合ってる!ステキ!」と言っているのですからね。そんなこと言われても全然嬉しくない。

とはいえ、先でも述べたように毎回オーダーメイドは難しい。個人指導ではないですし時間も限られているのでね。どうしてもレディメイドも必要となってくる場面はある。それに否定的に言ってきましたが案外レディメイドのほめる、それはそれで全くの無意味ではないです。それらの言葉は、本人が感じているであろう作品に対する「手ごたえ」を、講師が伝えることによって「再認識」させ、それを「自信」に繋げることはできる。

要はオーダーメイドとレディメイド、それぞれの「ほめる」のバランスが大切だよ、ということなんですが。使い分けであるとか、分配とか。

ただ、私としては「絵画教室」としてそれでいいのか、と疑問が思うところはあります。ここでいう絵画教室とは、学校ではない、専門性を深く学ぶ、少人数、長期に渡る関わりなどを含んでいる場ということです。そういった場においてちょっと物足りなくない?と思ったのです。学校や指導書などにはない、この場において必要とされる「ほめる」があるのではないか?と。

レディメイド”作品”のようなアプローチ

それで、もうこれは私の感覚的な意識づけでしかないのですが、ちょっと違う「ほめる」を試している訳です。ヒントはレディメイドという単語。ただの既製品というだけではない。美術においては重要な意味を持つ言葉です。分かりますか?

そう、マルセル・デュシャンです。ダダです。
有名な作品「泉」を思い出しますね。既製品の便器にサインだけして展覧会に出品しようとしたアレ。断られたアレ。「レディメイド”作品”」のひとつです。詳しく説明すると長くなるので省きますが、デュシャンがそれらの作品でやろうとしていたことは、要は「価値観の揺さぶりに価値を置いた」だったのです。今までとは違うことをやろうとしたんです。皮肉なんかも含まれていますがそれは置いといて。

この「価値観の揺さぶり」と「ほめる」が私の中で紐づいた時、何かちょっと分かったような気がしたのです。これを私の中に起こったダダイズム、ということにしておきましょう。

注文に答えるでも、既製品をただ与えるでもない言葉。デュシャンのように、レディメイドなものにただ一つサインというオリジナリティーを加え、本来この場にはないはず、を提供する「ほめる」。レディメイドを加工、ではなく、それが今までと異なる解釈となるように提供する感じですかね。既にあったもの同士を掛け合わせて、見たことない意味を持たせるともいえる。「ほめる」をちゃんと「作品」にしてあげる感覚。

ただのレディメイドの「ほめる」は「手応えを自信」に繋げるのに対し、このレディメイド作品としての「ほめる」は「未知への理解の始まり」な訳です。

具体的にどういう言葉か、は説明が難しいのですが、「虚をつく」感じですかね。ねらい過ぎるとサムい結果となりますが。ただ、そのねらいが当たった場合の特徴として、ほめられた生徒は瞬時には「喜ばない」で「驚く」。笑顔ではないんですね、目が点になる。こちらとしては一瞬不安になりますが。この驚きが重要。まさに現代アートと出会った感覚に近い。

「そこをほめるの?自分では特にいいと思っていないけど…」「なんか先生ほめてるけど、どういうこと?」という気持ち。「ほめる」に対してただ甘受するだけでなく考えを巡らせる、思考する。故の、目が点。真剣な無表情。自分の価値観の外にあったこと、そこがほめられ、それを理解しに行こう、理解して自ら「喜び」を獲得しようと思考を巡らせている為、表情を忘れる感じ。まあ、それで最終的に理解及ばず、の場合もあるんですがね。それでも「驚き」と共にほめられた経験は憶えているものでしょう。新たな成長に繋がるはずです。

これこそが、私として現状考える絵画教室に必要な「ほめる」なのです…が、実際どうでしょうか。もちろんオーダーメイドもレディメイドも必要ですし。さらに新たな問題にぶつかることもあるでしょうしね。またその時は私の中で新たな「ほめる」芸術運動が起こるかもしれません。それはそれで楽しみです。✍️

Text and Image = 本田雄揮(アトリエ5)
Direction = 遊と暇
・Edit = Tatsuhiko Watanabe
・Sound select = Keiko.mei.Fukushima

Website http://atelier-5.com/

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