自由意志について①


アタロウです。

ズバリ自由意志の話をします。


自由意志とは

自分の意志が自分の自由になるという仮説である Wikipedia

ということです。


つまり

あなたがある行動をするときに、それはあなたが考えたことなのか、それともすでに決まっていたことなのかという問題です。



あなたが朝仕事に出かけるのは、あなたの考えで行くのか。それともすでに決まっていことなのか。
あなたが夜映画を観に行くのは、あなたの考えで行くのか。それともすでに決まっていたことなのか。
あなたが今この記事を読むのは、あなたの考えで読むのか。それともすでに決まっていたことなのか。



この問題は非常にセンシティブです。何せ私たち人間は普通自分の意志で行動していると思っており、あなたの運命はすでに決まっているなどと言えば「ふざけるな」と言う人がいるからです。

こうした反応は今も昔も当然のことで、正常なことです。むしろこれをすんなり受け入れている人は危ない勧誘に引っかかると思うので危険だとすら思います。これまでの歴史でも同じです。この問題に取り組み、「自由意志は存在しない!」と言ったことで、危険視され、キリスト教、ユダヤ教から破門され、街からは追い出され、本は燃やされ、残酷な差別を受けた哲学者がいました。

彼の名前はバールーフ・デ・スピノザといい、今回のテーマのメインを飾る人物なのですが、まずはどうしてこの問題がセンシティブなのかを考えることにします。



自由意志がないとどうなるのか


仮に自由意志というものはないと仮定します。

つまり私たちの運命はすでに決まっており、私たちに意志はないという仮定です。

すると非常に困ったことが起きます。


Aさんは日々大変な努力をし素晴らしい成果をあげ会社に大きく貢献しました。一方、Bさんはサボり気味で成績もイマイチ、会社での信用も無くなっています。しかしAさんが努力することは運命で決まっており、Bさんがサボり気味になってしまうのも運命で決まっているのです。可哀想なのでAさんとBさんには同じ給料を渡しました。


CさんがDさんを殺害しました。しかしCさんは意志がないのでCさんを責めるのは可哀想です。なぜならCさんがDさんを殺害するという運命は既に決まっていたことだからです。可哀想なのでCさんは無罪となりました。


上の二つの事例ですが、私たちは受け入れることができるでしょうか。

当然受け入れられるものではないと思います。

ご存知の通り、日本においては死刑制度まできっちりと存在し罪人はきっちり犯した罪を償う必要があるし、また共産主義国家ではなく資本主義国家なのでしっかりと能力に応じた給料が渡されます。


実はそうなのです。

自由意志を認めないと、社会が崩壊してしまうのです。

自由意志を認めないと、仕事はサボり放題、ものは盗み放題になり、人は殺し放題です。

なぜなら仕事をサボるのも、物を盗むのも、人を殺すのも、可哀想なその人の運命のせいで、その人の意志ではないからです。

そして裁判は無くなります。なぜなら裁判は責任の概念が大変重要だからです。自由意志のない世界に責任はありません。


では話は簡単で、自由意志は存在するということでいいのでしょうか。

ここではまだ結論を出すことはできません。なぜなら自由意志が存在するかしないかは、人間社会が崩壊するかしないかで決まるものではないからです。自由意志が存在するかしないかを確認するためには、もっと論理的な説明が必要です。


ただし、繰り返しになりますが、自由意志は人間社会に大きな影響を与えており、自由意志を論じるということは人間社会に大きな影響を与えるということで、それゆえに、非常にセンシティブな問題なのです。



充足理由律は認める?認めない?


自由意志の話をする時に、考えたいテーマがあります。

それが充足理由律です。

充足理由律とは

「どんな出来事にも、そうであるためには十分な理由がなくてはならない」という原理 Wikipedia

つまり

ある出来事が起きた時に、その出来事には必ず原因がある

という法則です。


例えば次の例を考えてみたいと思います。

リンゴから手を離しました。リンゴは下に落ちて傷みました。


この出来事に対して3つの立場が存在します。


手からリンゴを離したのは他に何か意識が行ってしまい、リンゴが落ちたのは手が開かれたからで、傷んだのはぶつかったからだ
手からリンゴを離した理由はよくわからないが、リンゴが落ちたのは手が開かれたからで、傷んだのはぶつかったからだ
手からリンゴを離した理由もわからないし、リンゴが落ちたのも如何してかわからないし、傷んだ理由もわからない


簡単にそれぞれの立場を説明します。

一つ目の立場は、全ての出来事(なぜ手を離したのか、なぜリンゴは落ちたのか、なぜリンゴは傷んだのか)には原因があるという立場です。

つまり、充足理由律を完全に認めるという立場になります。


二つ目の立場は、ある出来事(なぜリンゴは落ちたのか、なぜリンゴは傷んだのか)には原因があるが、ある出来事(なぜ手を離したのか)には原因がないとする立場です。

つまり、充足理由律を一部認めるという立場になります。


三つ目の立場は、どんな出来事も原因がないとする立場です。

つまり、充足理由律を完全に否定する立場になります。


これらの全く異なる三つの立場は、過去の偉大な哲学者たちが主張していたことです。

一つ目の充足理由律を完全に認めるという立場は、冒頭にも出てきたスピノザがとった立場です。

二つ目の充足理由律を一部認めるという立場は、最も有名な哲学者の一人、エマニュエル・カントがとった立場です。

三つ目の充足理由律を完全に否定する立場は、イギリスの大哲学者、デイビット・ヒュームがとった立場です。


ここまででもしかするとお分かりの方もいらっしゃると思いますが、私は(今の所は)一つ目のスピノザが主張した「充足理由律を完全に認める」という立場に立っています。

正直なところ、この問題について氷山の一角すら理解していると思ってもいません。ですが、とりあえずどうして私が充足理由律を完全に認める立場にしたのかについて説明します。


まず充足理由律を完全に否定する3つ目の立場ですが、この立場は極めて難しい問題に直面すると思っています。

つまり、充足理由律を全く認めないということは、論理を立てることができません。なぜなら論理というのは、原因結果の連鎖で成り立つものだからです。

つまり、充足理由律は成り立たないという論理は、すでにその中で矛盾をしているか、もしくは、全く意味のない主張をしているということになります。

充足理由律を全く認めないという立場は大変難しい説明が要求され、これは間違っている確率が大変に高いと思います。


次は充足理由律を一部認めるという立場です。この立場はおそらく私たちの一般的な感覚に限りなく近いものだと思います。そしてこの立場に対して私も満足するような反論は出せていません。

しかし、二つ目の立場には一つ疑問点があります。

どうして、全くの原因がないところから発生したものが、その外の原因のある領域のものに影響を与えられるのでしょうか。つまり全くの関係のないものが突如として因果で成り立つ世界に影響を与えられるのかという問題です。

もちろん、これは論理ではなく感覚の領域を出ていないことは承知しています。しかし、こんな不明瞭な世界を想定するより、充足理由律だけでできたシンプルな世界を想像する方がはるかに分かりやすく、むしろ素直な姿勢ではないでしょうか。

そしてこれは蛇足になりますが、どうして偉大なカントがこの立場をがとったのかについて私には一つ考えがあります。

カントは『永遠平和のために』や『実践理性批判』を記すなど、大変に平和について考えた哲学者でもありました。

私はこれらの本(『実践理性批判』や『純粋理性批判』は難しくて解説書しか読んだことがありませんが)は大好きです。『永遠平和のために』を日々参考にしながら活動を行なっています。

そんな平和を考えるカントにとって充足理由律は致命的な問題でした。実は充足理由律を認めてしまうと自由意志はなくなってしまい、社会が崩壊してしまうからです。

平和を考えるカントにとって自由意志は必要な概念だったから、充足理由律を一部認めない立場に立ったのではないかという仮説です。

これはなぜカントが二つ目の立場を取らざるを得なかったのかということの想像でしかありませんが、本当はカントも充足理由律を認めたかったのではとも思っています。



自由意志がない世界をどう生きるか



充足理由律を完全に認めるという立場に立つと、自由意志というものは無くなります。

なぜなら、全てのものに原因があるのならば、意志という自分がスタートなもの(つまり原因がないもの)はないということになるからです(詳しくはスピノザ『エチカ』を参照。いつか『エチカ』ついても話します)。

つまり充足理由律を認める立場に立っている私は、同時に、自由意志も存在しないという立場に立っているということになります。


けれどもやはり

現に意志はあるじゃない。ではこの私たちが意志と呼んでいるものは実際は何なの?
あなたは自由意志がないという立場に立つのですね。では私が今からあなたの財布からお金を抜き取っても怒らないでくださいね。これはそういう運命だったのだから。

このような疑問が出てくることが予想されるわけです。


こうした疑問については私は次のように考えています。

私たちが意志と呼んでいるものは「人間目線では」存在します。しかし現実世界には存在しません。それは人間は有限な存在だということに理由があります。全てを理解している存在(仮にこれを神としますが)にとっては人間の行動は全て予測ができると思います。なぜならここは充足理由律が成り立つ世界だからです。神は全ての原因を追えるので私たち人間の行動がわかります。しかし人間にはできません。なぜなら人間は全てを認識することはできないからです。例えば私たちは歩くということですら、全てを認識して歩いているというわけではありません。しかし私たちは「なぜか」歩いています。この「なぜか」という原因がわからないので、順序を入れ替えて結果(歩いていること)を原因として世界を認識します。これを私たちは意志と呼びます。なので人間の視点に立てば意志「らしきもの」は存在します。そしてこの「らしきもの」を私たちは意志と呼んでいるのだと思います。
私のお金はとって欲しくないです。ましてや私を殺したり、家族は絶対に殺さないでください。なぜなら、盗まれたり、殺されたりすると、私は悲しいからです。盗まれたり、殺されたりすると、悲しいという特徴を私は持っています。その特徴こそが私の本質だからです。本質は存在します。なので悲しさも存在します。悲しくなりたくないので、もし盗もうとしたり殺そうとされたらなら、私は抵抗します。


これは詭弁でしょうか?実はこれは詭弁なのではなくスピノザ『エチカ』にて論理的に証明されていることなのです(笑)。

このことはかなり面白いので(interestingでもあり、funnyでもあります)後日詳しく述べたいと思いますが、とりあえず、この論証でなんとか自由意志を否定しながら社会の平和は保たれるわけです。



最後に、完全に蛇足なことを述べて終わりたいと思います。

自由意志を認めない立場に立つというのは、(充足理由律を認めるならば)論理的に立証された立場に立つということです。

なのでその立場に立ったからといって、良いも悪いもありません。

けれども、この自由意志を認めない立場に立つことで私たちにとって非常に良いメリットが副次的についてくることもあります。


例えば、外出中、他の人に不愉快な気分にさせられたとしましょう。その時には

でもこの人はこういうことをする原因があって、こういうことをしてしまったのだ。なんてかわいそうな運命なんだ。

と思うことができます。

道端で石に躓いても石に怒ることはありませんよね。他の人もそうした石となんの違いもありません。なぜならこれまで人にイライラするのはその人が意志を持ってそうした態度を取ってくるのだと思っていたからです。しかし意志がないという立場に立ってみた今、怒りは突如として軽減されます。(ただし、悲しみはあると思うので、なくなるのではなく、軽減される程度に止まると思います。)


一方で、何かとても良いことがあったとしましょう。その時には

私はなんて運がいい存在なんだ。こんないいことが起こるなんて。努力もして辛いと思うこともあったけど、こういういいことが起こる運命に生まれた。なんて素晴らしいんだ。ありがとう、お父さん、お母さん。

となる訳です。


全てを運命だと思っていたら努力をしなくなるのではないかという意見はありますが、もし努力をしなくなったのならば、それがその人の本質なのだと思います。何も悪いことではなく、むしろいいことだと思います。

ちなみに、私は全ては運命だと思っていても、努力はどうしてもしたくなってしまいます。これは私の本質だからです。

なので


自由意志は存在しないという立場に立つといいことが多いと思っています。


最後は勧誘じみた文章で終わってしまいました。


ありがとうございました。

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