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描ける小説で受賞し、描きたい小説で一次落ちする

私は十年以上前にラノベ系新人賞を受賞し、出版経験こそありますが、それ以降ほとんどの賞で一次落ちでした。

受賞した小説は、当時のラノベ系新人賞の受賞作をよく研究し、作中に何箇所か見どころのあるテンポの良い作品だったかと思います。ラノベの構造は研究しましたが、描く対象に対する深い調査はしませんでした。

どういうことかと言えば、例えば作中に野球が登場すれば野球に関する造詣があった方がいいし、歴史小説であればその時代を深く調べる必要があるでしょう。

私の受賞作は、そういったものがほとんど排除されたただのボーイミーツガールだったため、とりわけ知識を載せる場所がなかったのです。

だからこそ、軽快な読み味になってはいたのだと思います。引っ掛かりがなく、ストレスレスで、スナック菓子の役割をよく発揮した作品には近づけていたのだとは思います。結果売れなかったため、それがどこまでうまく行っていたかはまた分かりませんが。

一方、それ以降に投稿した多くの落選作に関しては、何らか調べ物が必要なものでありました。それこそ野球の要素を入れたり、近未来の話だったり、あるいは類人猿の話だったり。
自分の中だけでほぼ完結しない、調べ物が必要な話というのは扱いが難しいし、読み手からしても邪魔になることがあります。物語の起伏というのは基本的にキャラクターの心情の上下動なため、作中の知識は関係ありません。知識が知識として出てくるのは軽快感を阻害するだけです。

その作品特有の知識というのは、その作品のリアリティや、オリジナリティに利いてきます。面白さには(直接的には)利いてきません。あくまで土台、あるいは舞台装置の話です。
その土台により、読者に「よし、読んでやるか」と思わせた上で、キャラクターのやり取りによって面白さが生まれます。

だから、読み手の多くが知識を共有している学園ものや、読者層が固定されているナーロッパ舞台のものは舞台は借り物です。そのような作品は直接的な面白さのみ摂取でき、それが多くの「ラブコメ」であり、「なろう系」なのだと思います。
読書時に引っかかりがなく、とにかく面白さがダイレクトです。一方で、それを趣向しない読み手からすれば、内容が薄いだとか、世界観が共有できていない読者からは理解できないと言われたりします。

ラノベやなろうの多くは、舞台装置共有の傾向を強め、オリジナリティはエッセンス的で、必要な面白さをダイレクトに読者に届ける医薬品的商材なのかと思います。
※そうでないラノベやなろうが数多くあるのは百も承知です。

そして今回、GA文庫大賞にはその傾向の強い作品を一作投稿しました。そして、また小学館ライトノベル大賞にも、そういった作品を投稿しようかなぁと思っていました。

でもなぁ。
いや、でもなぁって感じなのです。
なんか、同じことを二度繰り返すのが、とても自分自身性に合わないんですよねぇ。

ところで、小学館ライトノベル大賞の過去四年分を研究しました。

受賞だけを最短で目指すなら、現代物のメタ要素を絡めた現代物の作品を、できるだけ読者との共有知識を活かして書くのがいい気がします。自分比ですが、そういうのを書くのは苦手じゃないとも思います。

でもですよ。

急にぜんぜん関係ない話を書きたくなることってありますよねぇ?

いや今本当に、調査した内容と全然ちがう話が書きたくなったのでnoteが止まっちゃってました。
なんていうか、今はとにかく旧ソ連的な世界観で戦時下の捕虜の女の子が四人くらい集まってバンドを組む話が書きたいんです。
これは少なくとも調べた限りの小学館の傾向とはあまり合致しません。

私は旧ソ連にも詳しくないし、音楽も詳しくありません。だから調べ物をたくさんしなければなりません。おそらく出来上がったものはスルスル読めないし、詳しい人からみれば(あるいは誰がみても)拙い作品になるかもしれません。
さらに言えば、この構想がどう物語になるのかもよくわかってないので、うまく完成させられない可能性もあります。

でもやっぱり、わざわざ小説を書くのは賞を最短で取りたいのが理由というよりは、書きたいものを形にしたい気持ちの方がつよいのかもなぁと、いまは思っています。いつまでそんな気持ちかは、またよくわからないものですが。

いずれにせよ、ソ連も音楽もよく知らないので、書き始めるまでに時間がかかりそうです。
たくさん調べ物をして、それをうまく小説に反映できる一段上の小説家になりたいものです。

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