年初の北陸での震災が示唆したもの
新潟・直江津の実家に行っていたつれあいと次女が被災してから2週間。幸いにも4日には無事帰京、親族にもケガなどはなく、家屋の破損も大規模なものではなかったようだ。とにかく一番懸念された津波はすんでのところで起きなかった。余震も今のところ頻回ではなくなってきている。しかし心のざわめきは相変わらず続く。もちろん震災の直撃を受けた石川県七尾市、輪島市、珠洲市、志賀町、穴水町などの地域の方々はいまだ極限の状況に置かれている。胸が痛むばかりである。さきほど「寒気の強まりとともに死者の数が増えている」との報道に接した。なんと残酷な現実。
ほかでもない、年初から否応なく意識せざるをえなくなったのは、現実は残酷であるということである。現実が残酷であるのはなにか悪意とか、教育的な配慮とか、そんなものとかとは一切関係ない。ただ残酷、そういうものになにか「意味」を求めても仕方がない。
1月1日、強い揺れが直江津を襲ったとき、実家にいたつれあいはとっさに足を悪くしている義母の上に覆いかぶさり、全身で守ろうとしたという。そのときつれは「あ、死ぬな」と思ったらしい。と、同時に「それは仕方ないな」というフレーズが続いたとも。一瞬のうちでそれらが頭の中に去来した、そのように当時の状況を語っていた。
もちろん自分もだけれども、人はえてして自らの意志で状況を改善できると信じている。学校教育でもそのように絶えず教えられてきた。努力し、向上するように、と。けれども、そんなものは意に介さぬという具合で、地球が身震い一つすれば、木端微塵になる。個人の意志も向上心も無関係。たとえば「日頃の行い」「前世の行い」とかに因果付けたりすれば、それは個人の「責任」に辛うじて回収することができるだろう。理不尽さを少しは希釈することができるのだろう。けれども、たとえ説明図式が成り立つにしろ、やはり「起こってしまったこと」の「仕方なさ」は、仕方なさとして残るしかない。
家族が帰京した1月4日、読了した精神科医・高橋 和巳の本『人は変われる 』(ちくま文庫)にもうしばらくこだわってメモしていきたい。
自分にとってこの本は、いわゆる自己啓発本の類とは全く異なるものとして残響している。それはまさに震災や、個人的にはコロナ後遺症という状況がシンクロしているのかもしれない。
この本で核となっているのは、自分流に解釈すれば、「必然と自由」への省察である。平易な語り口ながら、これほどこの問題について的確な指摘を行っている書は多くないような気がする。
ところで、「必然と自由」について考えるとき、よく浮かぶのは「ニーバーの祈り」である。1930年代に主に活動していたアメリカの神学者・ラインホルト・ニーバーが自らの著作で記していたものが、アルコール依存患者の支援をするアルコホーリクス・アノニマス(AA)の会合・「断酒会」において唱えられるようになったという。
私流に解釈すれば、この「祈り」においては「変えられないもの」を「受け入れる」ことに力点があるのではないか。変えられるものを変えられるのはそれは楽しい。けれども変えられないものは厳然とある。例えばメンタルの不調の多くは、この「変えられないもの」が存在するということを見ないようにする、はては否定するといったことによっているのではないか。
高橋和巳『人は変われる』では、「変えること」に囚われた人の具体的症例が冒頭で触れられている。とりあえず、この本についてまたメモを続ける予定。
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