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(短編小説)『心を浸す』


 私は海が好きだ。
 特に夜の海はいい。
 波の音は私の心を落ち着かせる。
 波の音を聴いていれば、物事を深く考えられる気がする。逆に、無心になれる気もする。
 靴を脱ぎ、くるぶしまで水がつからない程度に、足を海に浸す。その水はとても冷たい。
 温かさと冷たさが同居する。

 *

 彼と私が出会ったのは大学の新歓だった。
 彼は、全く女っ気のない人だった。綺麗な肌に、黒い眼鏡で、アホ毛が目立っている。一週間くらい剃っていな薄い髭は可愛げすらあった。
 たまたま席が隣になり、彼のスマホのロック画面が目に入った。
「あれ、それ、スラムダンクじゃん。スラダン好きなの?」
「え、ああ、うん。漫画、全巻持ってるくらいには好き」
「まじで?それ超好きじゃん。私も持ってるよ、全巻じゃないけど」
 彼はそう言うと、今まで合わせていなかった目を合わせてくれた、気がした。
「え、まじ?同世代で好きな人、あんまり会ったことないや。他にも漫画とか読むの?」
「読む読む。ジャンプとかも読むけど、これ伝わるかわからないけど、カラオケ行ことか」
「あー、話題だよね、それ。あんまり読む気がしなくて読んでないんだけど」
 彼の表情筋はいつもより動いている気がした。
「えー、もったいない。面白いから読んだ方がいいよ、なんなら貸してあげる。」
「うーん、気が向いたら読む。」
 彼はわざとらしく、しかめっ面をする。
「それ、絶対読まないやつじゃん」
 彼は図星をついてくれて嬉しかったのか、大袈裟に笑った。
「今度、持ってくるから、絶対読んでね」
「わかった、わかった」
 彼は嫌そうにしながらも、笑っていた。

 最初は、私のタイプじゃなかったが、仲良くなっていくうちに彼のことを気になっていった。
 ある日、彼と居酒屋で飲んだ帰り道、公園のベンチに腰掛けた。
 彼は臆病だから、きっと私に告白してこないだろうと思った。だから、私の方から告白した。

「私、ずっと三朗《さぶろう》のこと友達だと思ってたけど、そうじゃないみたい。あんたのこと好きになっちゃった」
 私は、たぶん、人生で一番緊張したかもしれない。手が震えているが、決して寒さ由来のものではなく、緊張からである。緊張すればするほど、自分がどういう状態なのかはっきりわかる。手だけではなく、声だって上擦っているし、私の足は別の生き物みたいに動いている。彼の顔を見るのは怖くて、街灯に照らされて少しだけ見える地面の砂利を見つめていた。
「ありがとう。嬉しい。俺も佳野《よしの》のこと好きです」
 その日はそのまま何かをするわけでもなく、家に帰った。終電よりも2時間近く家に帰った。
 その日の帰り道、心臓がバクバクして、歩くのがいつもより自然と早かった。

 *

 就活の時期になった、というよりも、就活と卒論を同時進行で進めなければならない時期になった。
 彼は、文系ではありがちな就活が終盤に差し掛かった8、9月から急ピッチで、卒論に取り掛かっていた。
 私は、もともと興味のあったジェンダー論で卒業論文を書いた。ゼミが始まってからの2年間を、卒論に費やした。
 しかし、それは就活で活かせるようなものではなかった。それゆえ、がむしゃらに就職活動をした。
 就活は、安っぽいスポンジケーキに甘ったるい生クリームを何度も重ねて塗るような感覚だった。
 例えば、なんてことないエピソードをさも自分の中で大切なことだ主張したり、誰にでもあるような出来事を自分だけの出来事のように、そしてそれを自分だからこそ乗り越えられたかのように話したりして本当の自分が少しずつぼやけていく気がした。ただ、話している内容の核の部分は、本当にあった出来事だからこそ、何度も落ちていると私が社会の中で働ける場所がないかのような気がした。いや、違うな。私が無意識にこういう環境で働きたいという理想に近づくことができないということを面接に落ちる度に、じわじわと思い知らされていった。
 知り合いが、内定をもらい就活を終えるという報告をもらうたび、「おめでとう」とは言えているが、「お前腹の底から本当に喜べているのか?」とどこからか聞こえてくるような気がして、特に感じる必要のない劣等感と罪悪感が芽生えた。
 そして結局、私が働きたいと思って受けている企業の本当の姿は面接を通しても見えてこなかった。それは企業側も同じかもしれない。

 *

 私は広告の制作会社に就職した。
 彼はビニール袋を作る営業の仕事に就いた。
 私が就職した会社は女性社員も多い。オフィスカジュアルという聞き慣れない服を着て、みんな出社している。上層部は男性ばかりだが、社内の半分くらいは女性社員だと思う。
 先輩も上司も悪い人ではない。有給を取ることも、定時に帰ることも否定はしない。ただ、「そういう時代だから」とか、「今はこういうこと言うのもセクハラになっちゃうからなあ」とか、そういう言葉が気になるだけ。他と比べると、いい会社だろうとは、思う。
 それに対して、彼が就職した会社は、かなり昔ながらの風土が残るようだった。いまだに女性がお茶出しをしていたり、遅くまで残業をする人が多くいるようだった。そして何より、接待が多かった。1年目こそ、新卒扱いで早く帰らせてもらえていたらしいが、2年目、3年目からは本格的に担当を持ち、残業や接待などで忙しそうにしていた。
 最初は嫌そうにしていたゴルフも、最近では1人で打ちっぱなしに行っている。
「最近、ゴルフ楽しくなってきたんじゃないの?」
「えー、そんなことないよ。付き合いで行っているだけ」
 と、彼は頭を掻きながら言うが、口角の上がり具合が「ゴルフ楽しい」と訴えている。

 *

 ある日、彼の車でドライブをした。彼がコンビニに寄っている時、ふと助手席と運転席の間にある小物置きが目に入った。
 その中に、あまり見たことない見た目の名刺を見つけた。なんの気無しに手に取って見てみると、その名刺には華やかと言うよりはギラギラとした感じの模様が描かれていて、「あき」という名前も書かれていた。
 私はゾッとした。あの女っ気のない三郎が?と疑問を抱きながらも、少しの嫌悪感に襲われた。
 浮気ではない。接待で行ったのかもしれない。それでも、三郎にも他の男と同じような「女」という生き物全体に向けられる意識が少しでもある事が何よりも嫌だった。
 だが、私はそれを静かに元の場所に戻した。しばらくして、彼が戻ってきた。
「コーヒー買ってきたけど、いる?」
「あ、ありがとう。ちょうど飲みたかったんだ。わざわざありがとうね」
 私の心の振動が身体全体に伝わらないように、言葉のリズムに伝わらないように、気をつけながら、そして気をつけている事すらも悟られぬように話した。
「ううん、男ですから。これぐらいの気遣いはできて当然ですよ。」
 私にはその話題にふれる勇気がなかった。
 彼は、上司を尊敬していた。彼が言うには、「上司は仕事もできるし、気遣いもできる。」らしい。
 気遣いができるなら、女性にお茶出しをさせるのをまずやめさせたらいいのに、と思わず口から出そうになったが、慌てて口を閉じた。
 彼のキャバ名刺を見つけてから、注意深く観察していると段々わかってきた。
 接待でもキャバクラに行っているが、おそらくその上司とキャバクラに行っていることが多いようだ。
 その上司には、仕事だけでなく遊び方まで教わっているらしい。本当に嫌になる。

 *

 キャバクラキャバクラキャバクラ。頭の中で崇拝する。なんか面白い響きだな。つい笑ってしまった。
「こわっ、なんで笑ってんの」
「あー、ごめん。つい思い出し笑いしちゃって」
 今日は2人で渋谷を歩いている。
「バーニラバーニラバニラ」
車から大音量で流れている音が聞こえてきた。ほして、それに釣られて彼が口ずさんでいる。
「その歌、簡単に口ずさむのやめて」
「なんでよ」
「それ、なんの歌か知ってる?」
「わかってるよ、風俗の勧誘でしょ」
「だから、やめてほしいの」
「なんだよ。しょうがないじゃん、聞こえてきちゃったんだから。それに佳野には関係ない世界じゃん」
 関係ない世界なんてないよ、と言おうとしたけどやめた。これ以上続けたら喧嘩になってしまう。せっかくのクリスマスに、久しぶりのデートで、大喧嘩なんてしたくない。だいぶ気持ちが冷めているのをわかっているからこそ、まだこんな気持ちがあることに驚いた。
 彼はすれ違う女性を横目で見ながら歩いている。
 美容の広告、胸が強調された女の子のイラスト、痴漢注意の張り紙。
 彼はそんなの気にも留めない。いや、目に入ってもいやらしい目で一瞬だけ見る。
 同じものを見ているはずなのに、こんなにも見えてる世界が違うなんて、あの頃どうやって分かり合えていたのだろうか。
 いや、本当に分かり合えていたのだろうか。

 その日の夜は、彼がホテルを予約していた。
 セックスは全然楽しくない。いや、楽しくなくなった。
 付き合って時間が経つにつれて、いや、就職してしばらく経ってから前戯の時間が段々短くなっていた。
 終わった後の会話もまるで相手してくれなくなった。男はこれでいいのだろうか。それとも三郎だけがこんな感じなのだろうか。
「先週さ」
 久々のピロートークだ、と胸が躍った。
「内勤の先輩が結婚したんだよね」
「え、あ、うん」
「それで子ども産んでさ、産休入ったら、内勤1人になっちゃって大変だなと思って」
 疑問符疑問符疑問符。
「その先輩は子ども産むって言ってたの?」
「え、いや、言ってないけどさ」
 疑問符疑問符疑問符疑問符。
「あ、いや、それで思ったんだよね。佳野はさ、子ども何人欲しい?」
 ピロートークに心躍らした時間を返して欲しい。別に子どもが欲しくないわけではない。わけではないんだけどさあ。
「私、子ども欲しいって言ったことあるっけ?」
「いや、ないけど。え、なんか怒ってる?」
「別に怒ってはないけど、なんかモヤる」
 モヤモヤしている理由はわかっている。分かっているけど、何故か言えない。
「なにそれ」
 彼は鼻で笑うようにそう言い残し、気付いたらいびきをかいていた。
 私はめんどくさい女なのかもしれない。そうかもしれないけど、この違和感を無視してしまったら、私はきっと幸せになれない気がする。
 そして、今日を境に会う頻度がかなり減った。

 *

「あのさ、別れよっか」
 私はついに決心した。
 今日、この話をするために彼の家に行った。
 彼はダイニングテーブルの前に座って、スマホをいじっている。座れば、と言われたが、長居をしたくないから断った。長居していると気が変わりそうだった。
 以前までの彼と今の彼は違う。何かが変わってしまった。
「え、なんでよ。」
 彼は明らかに動揺していた。
「なんか俺悪いことした?確かに、最近会う頻度少なかったけど、長く付き合ってればそういう時期もあるかと思ってだんだけど」
 声が震えている。怒りがジワジワと湧き上がっている、ように見える。
「え、ああ、わかった。クリスマスの時のこと?あれほんとに怒ってたの?もしそうなら、なんで怒ってるかわからなかったから教えて欲しい」
 彼は座っている。ただ、スマホはもういじっていない。けど、私の方も見ていない。目を合わせるのが怖いのかもしれない。
「黙ってないで、なんか言えよ」
 彼は叫び、机をグーで殴った。
グーで叩いたその振動によってコップの水が揺れた。男は論理的で女は感情的という昔の言葉があるが、男の方が感情的なことが多いじゃないかと昔から思っていた。男の友情、男はバカだからさ、男だから。どこが論理的なのだろうか。
 不思議。不思議だ。怒鳴られているのに、驚くほど冷静だ。
 でも、手で口を押さえつけられてるみたいに、言葉だけが外に出ていかない。
 そして、やっと分かった。彼の何が変わったのか。彼は「男」になってしまったのだ。
「ごめん、少し取り乱した」
 少しどころじゃないよ。おかげで私はあなたの思い通りになっている。
 深呼吸をした。すると、かろうじて言葉が出てきた。
「そういうところだよ」
 一言発すると、続けて言葉が出てくると思ったけど、意外と難しい。私、結構ビビってるんだなあ。
「あ、あなたは変わっちゃったんだよ。もしかして、もしかしたら、私も変わってるかもしれないけど。」
3年以上も一緒にいた彼に対して、怖いと思ってしまう。
「最近、一緒にいても楽しくないの」
 一瞬、彼が何かわかったたような顔をしたが、すぐに悔しそうな顔になった。
「好きな人でもできたんだろ」
「違うよ」
「じゃあ、俺のこと嫌いになったのか」
 半分当たりかもな、と思った。だけど、嫌いではない。だからこそ、別れることを決心しないと、この話はできなかった。
「嫌いかあ。わかんない。そうかも。でも、それ以上に社会も憎いよ。三郎をそんなふうにしてしまった社会も」
「意味わかんねえよ」
 そりゃそうだ。いまとなっては、彼と私とでは見えている世界が違いすぎる。
「ごめんね、三郎。でも、ちゃんと楽しい時期もあったよ。さようなら。」
「ちょっと待てよ。そんなんだったら、これからも同じ」
 三郎の声は部屋を離れるにつれ小さくなり、玄関の外に出ると全く聞こえなくなった。
 これ以上、続けても無駄だと思った。いや、続けることが怖かった。なんだか、空間ごと彼に支配されてしまいそうで。
 最後、三郎の顔は見られなかった。
 家を出て、早足で駅に向かった。その勢いで連絡先も消した。
 実家に帰り、泣き顔を親に見せないように気をつけた。
 実家の車を借りて、私の好きな夜の海へ向かった。

 *

 夜の海が好きだ。
 冬の海の風は、無防備な顔に突き刺さる。
 穏やかな波の音は私の心を温める。
 街灯もなにもない。真っ暗だからこそ、広告だって目に入らない。
 足が砂の中に沈んでいく。海水のベタつきは私を離さない。
 誰に対しても冷たいけれど暖かい、平等な世界。

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