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愛の出し惜しみ

私は、難しい言葉や綺麗に整えられた言葉が並ぶ文章が嫌いだった。
読む意欲も出ず、見た目であきらめる事が多かった。
そもそも、読書が苦手だった。今もまだ少し(笑)。
カタカナばかり並ぶ会話もそれと似ているところがある。

でも、今それがいくつかの出来事が繋がって、少しずつ読める→読みたいと思えるようになってきた。重なって繋がった、そんな感じ。
いつだって自分の中の感覚が変化するときには、誰かとの関わりがそこには存在する。

いくつかの➀
ある人が学生時代に影響を受けたという本を貸してくれた。しかも三部作。
本というより、その人へ影響を与えたというところに興味をもったので、ありがたく読み始めた。
まさかのドはまり。人生最速で読了。読み終わると報告、次の本貸しての催促のように感想を毎回シェアしてた。三部作の3つ目が、最初読みづらくって苦戦。
でも、どうにか読み取りたいとそのときは必死で読んだ。最後まで読み切った時は今までの積み重ねもあって理解できたことも多く気持ち良かった。

いくつかの②
今カオス的面白いことを一緒にさせてもらっている、とがってかっこいいパイセンたちがいる。
この中のお一方が、哲学者みたいで頭の中がすごい宇宙みたいな超絶興味深い方で。私の知らないカタカナをたまに使って会話をしており、初めて何?知りたいその言葉!みたいになった。しかも聞くと、ちゃんと説明してくれる。伝えたいと思ってくれている。感動。
その人を知りたいと思ったら、伝えてくれる言葉をこぼしたくなくて必死に自分からなっており。初の感覚でびっくりしている(笑)。

いくつかの➂
また違うある人と仕事をしていて、一緒に仕様書を読んでいた時の事。
とてもかしこまったカチカチに硬い言葉で作られた文は、私がいつもあきらめていた文そのものだった。でも、その人と真剣に一緒に取り組みたい仕事だったから頑張って読んでた。そんな時。
「相談事だと思って読んだら読めるよ」って何気にその人に言われて。
ハッてした。その捉え方で読む体制が私自身変わったから。
そこに少し愛を持ちよったら、誰かの相談事になり、あとは読解力でカバーできるのだ。

いくつかの④
➀の人はよく「本は人」って言ってて。
どういう事かと言うと、本は結局人が書いていて、その人の人格が宿る。
読む側はそこから色んなことを感じ、知る。まるで誰かと出会えたような経験をした気持ちになる。そんな感じだろうか。

ここまであって、➀と②の側面もありつつ、➂と④が繋がって…
仕様書も誰か書いている人がいて、人格があるならば。
たとえ文が硬くても、その人を理解したいと思ったら…文字だけでなく、向こう側にいる人を思ったら読める。
まさに「本は人」と同じように、「仕様書だってもともとは人」みたいなことなんだ。こう思えた。あなたを知りたい、という気持ち。

この皆さんに共通して感じる事は、伝える・受け入れるの『愛』。
持ってる。そこに持ち寄ることができる。

なんてこった。
私は自分が可愛くて、愛を出し惜しみしたせいで、きっと読む前に切り捨ててしまった「人」がいたということに今更気付かされる。
愛のある人からもらうだけもらって、自分が持ち寄れてなかったな。
でもって、なんて愛のある人達に囲まれておるのだ…。感謝。

相手(ヒト・モノ・コト)と向き合う時に持ち寄る、さすれば繋がる。
それがきっと『愛』の使い方なのかも。
なんて。苦手だったものがそうじゃなくなってきたことを紐解いたら…
愛の出し惜しみをしてきた自分に気付く羽目になった出来事のお話でした。