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オフサイドラインの仕事人 フィリッポ・インザーギ

特徴・プレースタイルなど

「ゴールを決めること」に特化したイタリア屈指のポーチャーとなります。
スピードやジャンプ力、テクニックや体の強さなどを持ち合わせていないものの、天性のポジショニングセンスでボールを呼び込みゴールを奪います。
フィニッシュ以外にほとんど関与せず、ラストパスにだけ抜群の反応を見せ、少ないシュートを決める姿から「ワンタッチの天才」とも呼ばれています。
美味しいところをかっさらう「ごっつぁんゴーラー」という印象を持っている人もいるかと思いますが、全てはゴールに向けた「仕込み」があってこそのものとなります。

人一倍ゴールへの意欲が強烈で、何度も動き直し最高の角度で侵入していくだけでなく相手DFとの駆け引きや小競り合いなど、実力者揃いのACミランにおいて在籍時一番「見ているだけで面白い」選手だったのではと思います。
オフサイドを多く取られる試合ほど彼の調子が良いと言われ、何度も動き回ってアクションをし、1ゴールのために全力で駆け引きしていることが分かります。
そのプレースタイルから「オフサイドライン上で生まれた男」とまで呼ばれていました。常にファールをもらうことも狙っており相手を苛立たせてシミュレーションをもらおうとしたり、一瞬の集中力のきれを狙うなど当時世界屈指のDFと言われるデサイーさえも「インザーギとの対戦はまるで悪夢だった」と言わしめるほどである。
得点感覚に関しては少年期からあり、ボールは収まらずパスも明後日の方向に行くなど、全くと言って良いほど技術はないものの、試合のたびに何故か彼の足元にボールが転がっていったと言われる摩訶不思議な選手だったようです。ポジション感覚というかセンスというのか「これも才能」とユースの監督も考え起用していったとのことです。動きに関する指導をしても全く聞かず、しかし最後にはなぜか点をとってしうまう「ゴールはだれにも教えられない」ということを体現した選手でもありました。

現代の選手は求められるものが多く、とにかく上手いですがインザーギのようにゴールを決めることに特化した放漫な選手は絶滅してしまったのではと思います。
イタリアの名DFカンナヴァーロも自身が作成したFWベスト3にインザーギを挙げており「抜群に鼻(得点感覚)が利きACミランというビッグクラブで長年得点を量産することは並大抵のことではない」と言ったという。彼のような個性とセンス、そしてロマンがある選手はもう出てこないのではと思います。

経歴等

セリエBのピアチェンツァの下部組織で選手生活を開始し1991年にトップ昇格を果たす。
翌年にセリエC1のレッフェにレンタル移籍し21試合13得点を記録。その翌年にはエラス・ヴェローナにレンタルされ36試合13得点を記録した。
この活躍で1994年開催のU-21欧州選手権のイタリア代表に選出され、将来をA代表を担う選手達と欧州の舞台で競い合いました。
1994-95シーズンはピアチェンツァに戻り37試合15得点、そしてセリエB優勝を果たしこの活躍により当時の強豪クラブ・パルマへと引き抜かれました。
アスプリージャ、ゾラ、ストイチコフなど名手がおり、完全に控えにまわり15試合2ゴールと完全に沈黙しシーズン終盤には足首を骨折しベンチにも座れない悔しい日々を過ごしました。

1995-96シーズン終了後にパルマから放出されアタランタBCに移籍。
ここでインザーギは得点を取ることに注力しチームはインザーギのために、インザーギはゴールのために絶えず動き得点を量産しチームをしっかりと牽引。世界で最も守備の統制されたリーグで24得点を決め得点王の称号を得てビッグクラブの1つであるユヴェントスへの移籍を勝ち取りました。

デル・ピエロとの「デル・ピッポ」コンビとジダンの活躍もありユヴェントスは見事リーグ2連覇を達成しました。
1998-99シーズンはW杯出場選手の疲労からチームが低調となり、デル・ピエロが長期離脱やドーピング疑惑のごたごたによりチームは6位の成績に終わり、本人も内転筋の痛みなどコンディションに問題を抱えるなど満足できないシーズンとなりました。
2000年にトレゼゲを獲得したチーム内で序列が後退していき2001年にACミランへ移籍。
2002-03シーズンはセリエAにおいてチームトップの17得点を上げ、さらにチャンピオンズリーグで6度目のビッグイヤー獲得にも貢献。

その後は怪我に苦しみ、無得点に終わるシーズンもあるなどFWとしては非常に残念なシーズンを過ごしながらも2005-06シーズンより徐々に復調していき、レギュラーを奪い返し世界制覇をすることとなるイタリア代表への復帰、そして2006-07シーズンはチャンピオンズリーグ決勝で2得点を叩き出し優勝に貢献。
2007-08シーズンは怪我による欠場も多かったものの、シーズン終盤の5試合連続ゴールを含む9ゴールを挙げ存在感を発揮。

2009年シエーナ戦でキャリア300ゴールを記録。
2012年には10年以上在籍したミランを退団することを発表。ラストイヤーの最終戦で同年退団を表明していたセードルフやネスタと共に出場し、セードルフからのライン裏を取る浮き球を胸トラップし、右足でジャンピングボレーを決め有終の美を飾った。
美しく「これがインザーギだ」という姿を人々の目に焼き付けたゴールでもありました。


引退後はミラン育成組織のコーチングスタッフに就任し、その後2014年にトップチームの監督に就任。
ヴェネツィアFCやボローニャFC、ベネヴェント・カルチョFCなどの監督を歴任。
国際Aマッチ57試合25得点。


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