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実は児童養護施設で生活していました|僕の生い立ちと、今想っていること

唐突ですが、僕が目指しているのは「若者が素直に夢を追いかけられる」世界になることです。

先日書いたnoteでは、僕が取り組んでいる仕事について紹介しましたが、その仕事も目指す先は同じです。


大学の同級生との再開

これまでを振り返ると、内省になることも踏まえ、繋がっている人たちに自己開示するためのブログを書こうと思ったことは何度もありました。 ただ、なかなか自己対話だけでは納得いくような言語化をしきれなかったんです。

「それが本当に自分の想いからなる言葉なのか。」
「思考の結果出てきた、本音とはかけ離れた言葉ではないのか。」

と、あーでもこーでもないと書いては消してを繰り返している内に、気付いたら1年が経ってしまいました...

そんなときに、大学の同級生である雛子と再会しました。

ライターとしても幅広く活動している彼女に、
「インタビューしてもらうことで自己紹介分をつくれそう!」というわけで、今回のnoteが完成しました。

ここから、自己紹介に入りますが、僕と仲良くして頂いている方には全く明かしていなかった過去もしっかりと記載しています。

学生の時はイジメを恐れ、大人になってからは周りからの同情を恐れ、過去の自分を公開することを避けてきました。ただ、自分の経験を元に自己開示をすることで、誰かの役に立てる気がして、書くことを決めました。

児童養護施設での生活が自分の核をつくりだした

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僕はフィリピン人の父と日本人の母の間で生まれました。二人は結婚せずに別れていて、父親には生まれてから会ったことがありません。

お母さんは中卒ヤンキー。僕が物心ついた頃から、夜の仕事をしていました。「No.1ホステス!」とかではなかったので、一人で生活を支えるのは非常に大変だったと思いますし、家計はパンク寸前だったと思います。というか、パンクしてましたw(給食費を滞納したり、光熱費が払えずに公園で水浴びしたり、ホームレスに近い生活をしていた時期もありましたw)

普通に家で過ごしている時間も、学校から帰ってきては、子どもながら掃除洗濯などの家事も重要な任務でした。任務に失敗すると、叱り付けられるられることも多々ありました。

母もそんな日々の生活にストレスを抱えていたのだと思います。叱り/躾けはエスカレートして、やがて虐待と言えるほどにまで発展していきました。

その結果、小学6年生の時には、集中治療室に入るほどの怪我を負うまでに至りました。(※ショッキングな内容なので詳細は伏せておきます)

救急搬送され、次に病院で目を覚まして母が目の前にいた時、最初に心に浮かんだ感情は「恐怖」とか「憎しみ」ではなく、「安心感」でした。小学校6年生でしたが、どんな状況でも結局親子は親子で、変えられない繋がりがあるんだなぁ、と悟った瞬間でした。

2週間の集中治療室、3ヶ月の入院生活をしました。その間、警察や心理カウンセラー、社会福祉士、民生員さんなどたくさんの人が僕の元へ訪れました。

結局、僕は児童相談所へ行くこととなり、約3ヶ月をそこで過ごし、埼玉県熊谷市の児童養護施設に入ることとなりました。

【余談】
 僕の初恋は児童相談所での出会いでした。個人情報保護の関係で出所後は連絡を取ることはできませんでした。しばらく頭を離れなかったのですが、高校2年の夏に地元のライブハウスで奇跡の再開を果たしました。
 今では良き友達として、たまに連絡を取り合う仲になりました笑


児童養護施設は新しい家でした。それも大家族の。幼児から高校3年生までで80人くらい生活してたと思います。

僕が今自分らしく生きられるのは、施設にいる様々な異なるバックグラウンドについて知り、それも"普通"であると認識しているからです。
(いや、普通じゃないんだけど、受け入れられるべきというか、多くはないけどそういう人たちも結構いるよ、みたいなニュアンスで。)

この頃、「施設に入っている子ども」というレッテルのせいで、自分の可能性を閉ざしている子どもが多くいることに課題意識も持つようになりました。実際に僕も、頑丈な心の壁が出来上がってしまっていました。

この頃の経験が今の自分の核となっています。


貧しさの中でなんとか大学に進学

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児童養護施設は18歳になると”自立”という名目で出所していきます。

僕の場合は「母のところに帰りたい」という意思が強くあり、なおかつ母も僕が帰宅することを望んでいたので、施設で3年過ごした後、中学3年生になるタイミングで実家へ戻りました。

実家へ戻ってからも、貧しいという現実は変わっておらず、さらにはこの事件から母自身も精神的な負担が残ってしまい就職できず、生活保護を受給しながらの生活を送っていました。これもまた、後ろめたい事実へとなっていきます…。

高校を卒業したらすぐに就職してお母さんを支えるつもりで高校に進学しましたが、入学後は学校の先生になりたいという思いが芽生えました。

過去の自分の体験からなかなか大人を信用できなくなっていった自分が、いつも頭に思い浮かんできていたのが小学校の担任の先生でした。

勉強だけではなく、なんというか心でいつも話しているというか、授業以外での温かさが今でも印象的です。そんな先生方を思い浮かべて、自分もそんな大人になりたいと思うようになったのです。

教師になるためには、大学を卒業する必要があります。しかし大学にはかなりのお金が必要になるので、僕は無利子の奨学金を探して、学費が比較的安く済み、自力で支払えそうな夜間学部に決めました。
(この時に家計を回す力が身についた気がしますw)

奨学金を借りるためには、世帯分離と言って、事実上家族をふたつに分ける手続きをする必要があり、当時の僕は未成年でしたが、その瞬間から母から独立をして自分の力で生きていくこととなりました。

夜間の大学では、昼間に働いて、夜は勉強をするというのが普通の生活ですが、ただそれだけではなく他の人がやらないこともやっていきたいと思っていました。

僕は隙間時間を見つけて、海外からの留学生や国際交流をしたい学生が集まるECZ(English Community Zone)に通い詰めました。
そこにいくことを決めたのに特別な理由はなく、直感と勢いだけでした。

英語しか話してはいけない環境にもかかわらず、僕は日本語をしゃべりまくり...とにかく世界の人と出会って話をしたかったんです(笑)。そうしたら新しい世界が見えてくるんじゃないかって。

思った通り、色々な国の人と交流することは、僕の視野を広げてくれました。

教師を目指していた僕は、お金がないのであまり多くの課外活動はできないけれと、無償で参加できるということで様々なボランティアに取り組んでいました。その中には教育に関係することもあり、その活動を通して「教師になっても僕の目標は実現できない」ような予感がし、結局、教師から別の将来の道を進むことにしました。

大学でお金を払いながら学ぶよりも、実践して学べる環境と出会う

大学2年生がはじまろうとしていた頃、世帯分離により生活保護の受給は母親のみとなっている中で、僕は奨学金を得ながら同居をしていたため、このままでは不正受給の扱いになる危険があり、実家を出ざるをえなくなりました。

大学のために貯めていたお金を切り崩して、1人暮らしを始めたため、学費が払えなくなり、休学というかたちをとって学費を貯めることにしました。

そんな中、自由な時間が増えて、夢中になったことがあります。

先輩に誘われてはじめた、外国人に観光案内をするガイドのボランティア【Japan Local Buddy】です。

ガイドを通じた国際交流をして世界中の人と出会うことで、「様々なことを自分ごとにでき、尊重し合えるキッカケになるのでは」という思いでやっていました。世界という規模になると、わからないことの方が多くて当たり前です。でも、まったく歴史も考え方も違う人たちとも、尊重し合って生きていける社会になる必要があると思っています。

*このボランティア活動は、今では会社立ち上げまで発展し、今でもメインのお仕事としてお世話になっています。

その当時、ボランティアと並行して飲食店などのアルバイトを掛け持ちしていました。これまでに20種類近くのアルバイトをしてきたと思います。

そんな中で、ただ労働力だけを提供して、それを時給に変えていくような働き方じゃなく、労働しながらもっと学べる環境に行きたいと思うようになりました。(学生に一番大切な図々しさだと思っていますw)

知り合いの社会人に相談したところ、「うちにこいよ!」と言っていただけたことをキッカケに、一部上場のIT企業に当時の最年少で入社しました。

そこでは営業チームに配属されたのですが、とにかくスキルをつけたくてガムシャラに新しい仕事に食いついていくうちに、内勤営業やマーケティングオートメーションの運用をやらせてもらえることになりました。

仕事を任せてもらえるのは、信頼されていることを実感でき、めちゃくちゃ嬉しかったのを肌で覚えています。

ただ僕は、新卒採用扱いで入社した訳ではなかったため、新入社員研修のようなものは一切用意されておらず、とりあえず会議に参加し、実戦で揉まれまくることで、ビジネスに必要な能力を身につけていきました。

ふと、大学に高いお金を払ってただ座学で学ぶよりも、お金をもらいながら成果もしっかり残して、実践の中で学ぶ方がいいんじゃないかと思ったんです。

ハマりきったボランティア活動と、ビジネスの現場での学びが融合して、大学にいくよりも価値の高い時間となっていたんです。となると、大学はまた行けるときに行けばいいし、このまま好きなことをやり続けて稼ぐ力を身につけた方が合理的だなと。

大学は退学することにしました。(とはいえ、もしそのとき十分にお金があったら、絶対に退学してないですがw)


自分の可能性を追求することに勇気を持つ人を増やしたい

僕が目指しているのは「若者が素直に夢を追いかけられる」世界です。これは、児童養護施設にいた頃にポツポツと考えるようになったことです。教師になりたいというのは、目的ではなくて、この実現したい社会への数ある手段のうちの一つでしかありませんでした。

お金がない中で、実現したい社会のためにボランティアに夢中になるのは、少し矛盾しているようにみえる行動かもしれません。しかし僕は「稼げないからやらない」と意思決定をしたことはなくて、むしろお金をかけずにやりたいことがやれるって最高だなって思えるんです。むしろ、ボランティアでやりたいことが叶えられるなら、そのほうが合理的だと思っています。
(ビジネスになるとそうはいきませんが、やりたいこと=ビジネスではなく、やりたいことの実現にビジネスが必要という位置付けなので、まずは現状できることを見つけて行動することが一番だと考えています。)

誰もが何かしらの痛みや苦しみを抱えていると思います。解消できず、グレていってしまう若者も多くいると思いますが、僕はそれ自体が悪いことだとは思っておらず、それも一つの選択なのかなーと。

ただ、もしそれが本当にやりたいことではなく、社会や大人への苛立ちから生まれた行動であるのなら、もう一度自分と向き合う時間をつくってみて欲しい。

生まれる環境・育つ環境を選ぶことはできないけれど、何をして生き、どんな人間となり死ぬのかは、今自分が想像できる一番ベストな形を自分で選ぶことができます。そんな生き方を一生していきたいのか、自分に問いかけ続けたい。

自分の可能性を追求することに勇気を持ってほしい。
身近に僕のような若者や子どもがいるかもしれません。
読んでくださった方の頭の隅にポツンとでも置いておいてもらえたら嬉しいです。


記事執筆:大野雛子
https://note.com/hinakottalia

<インタビュー後記>
 彼と一緒にどんな社会にしていきたいかとか、どんな人になりたいか、語り合うことは何度かあった。しかし、彼のストーリーは、取材をするまで聞いたこともなかった。ただ、この強い芯はどこから来るんだろうと思うときはあったと思う。
 彼の言う「生まれた環境を選ぶことはできないが、自分で人生を選び、自分の可能性を追求して欲しい」というのは、間違いなく「甘えるな、頑張れよ若者」ということではなくて、その中に、「僕も支えるから、一緒に頑張ろう」という優しさが、あたたかく含まれていると、私は解釈している。
 「優しい強気」。お話を聞きながら、浅香翔太はそんな人間なのかなと思った。これから先、私も一緒に彼の目指す将来の力になれるように、全力を尽くさなきゃ。(大野雛子)

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