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シャンディガフ

・文章のなかで、漢字を敢えてひらがなにすることを、「ひらく」という。以前この「ひらく」ことを知ったとき、ぼくはそれを意識的にしてきたようにおもえた。文章としての見た目の緩急だとか、かわいらしい印象だとか、もちろんそういうことも理由のひとつなのだけれど、文字・言語という非感覚の限りある媒介の母体に対する、ある種のコンプレックスがあったのではないかと思う。有限であるはずの言葉が、ふとした瞬間に、見晴かす宇宙の悠久を垣間みせることがある。だからこそ、はっきりとした輪郭ではなく、ただわけのわからないものとして、感じていたかっただけなのかもしれない。

・過多は人間を支配する。
「〜過ぎる」ことが喜ばれるのはほんの一時で、人間は良い意味でも悪い意味でも、それに適応してしまう。さらには、その「過ぎる」部分ばかりに光が当たってしまい、ついつい大切な要素が影になってしまう。
満たされたい、という欲求は、なんだか被害者のような風貌をした悩みだが、じつはそれは加害者以外の何でもない。だれかに今日以上の奉仕を求め、それを貪り食うほかないのが人の常だ。義士も聖女も加害者なんだ。ぼくたちはそれを、日々自重して謝り続けなければいけない。それが人間の、ひとつの原罪だろう。

・「愛」というのも、ある種の過多だろうか。
日本語というのは、非常に繊細で、認識の網の目が細かい言語だ(った)。かつては「情」や「色」や「恋」や「惚」などで表されてきたことが、いつからか「愛」ひとつにまとめあげられている。「愛」ということばの似合わない「愛にも似ている関係」というものがあるはずなのに。
親子の間でも、夫婦の間でも、恋人同士であってさえも、「愛し合ってるんですね?」なんて言われても「よせやい。そんなんじゃねぇよ」というような、しかし互いに大切な相手であるような関係はある。そういうのをみんな「愛してる」にしているんだ。たしかに愛はいいものかもしれない、が、愛とは呼びにくい、「良いもの」だってあるとは思わないだろうか。

・過多は、利便の追求の末に遂行されてしまった虚無だろうか。それとも、恥の文化が日本人を抑制しすぎてしまったが故の恥じらいであるのか、答えはわからない。
ただぼくたち人間は、すこし足りないで、もどかし過ぎるくらいがちょうど良いはずなのだろうに。

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