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河童にまつわるあれこれ  もりたからす

河童は人の尻子玉を抜くという。

(初めて聞く人もいるだろうが、小芝風花主演ドラマ『妖怪シェアハウス -帰ってきたん怪-』に登場するスイミングスクール勤務の河童も有閑マダムの尻子玉を抜いていたので、一般教養として話を続ける。)

私は以前からこの河童-尻子玉伝説が嫌いだ。架空の生物が架空の臓器を取ることが許せない。

「雷様におへそを取られる」や「写真を撮ると魂を抜かれる」を見習い、せめて一方は実在のものを採用して信憑性を高める努力をしてほしい。

なぜ荒唐無稽な尻子玉伝説が人口に膾炙してしまったのか。

肛門括約筋の緩んだ土左衛門が川沿いの村で発見されることは充分あり得る。それを囲む村人の中に、おかしなことを言い出す輩が出てくるわけだ。

村人A「これはひょっとすると妖怪の仕業ではないか。尻の穴から何かが抜かれたようだ」

村人B「そういえば私の曾祖父もこの川で河童にやられたと聞いたことがある」

村人C「二、三日前、この川で河童を見た」

Aがジャンルをホラーに固定し、Bが無責任な伝聞で場をグッと引き締める。Cは単なるホラ吹きだが、このタイプは自分で自分の嘘を信じ込む傾向にあり、放っておくと「全身が緑色、手には水掻き、頭には皿」などと勝手に細部を補強していく。

しかしCには「尻子玉」という架空の臓器を生み出す発想もネーミングセンスもない。私としては、とっさに「曾祖父」というそれっぽいくせに検証不能な世代を持ち出す機転の持ち主、Bを尻子玉発案者と想定したい。

当初「この土左衛門はなぜこんな状態なのか?」と健全な懐疑を抱いていた村民会議も、ここに至って「確かに河童は恐ろしいと聞く」などと犯人の妥当性に気を取られ、尻子玉の存在を前提としてしまう。論理の誤謬と断じて差し支えない。

もちろん、この伝説が広まる過程では、ちゃんと人の話を聞けるタイプの江戸っ子などが疑義を呈したはずだ。

「ちょっと待ちねえ、その尻子玉ってのはなんでい」とかなんとか。

しかし怪談話を長屋の娘などに嬉々として広める陽キャのノリに、いつの時代も、知性は決まって敗北を味わう。

「いやいや、尻子玉って河童のやつじゃん、河童の。テンションテンション。うぇーいでござる」

かくして「誰も見たことのない生物が、誰も所持していない臓器を奪う」という意味不明な伝説は一般教養となり果てた。

河童伝説には、川で遊ぶ子供を戒め、水難から遠ざける教訓の要素もあっただろう。

ただしこと尻子玉に関しては、それが誰かの思い付きで勝手に大腸内部に配置された架空の球体であるため、「取られるとどうなるのか」の部分に今ひとつ統一性を欠く。

各辞書の見解も、
(1)河童が好んで引き抜く
(2)抜かれると水死
(3)抜かれると虚脱状態になる
(4)抜かれるとふぬけになる
と様々だ。

(2)と(3)はそれなりにやばい。河童と遭遇した際には何があってもお尻の穴を死守したいと思わせる。

(1)は実害がなさそうだし、若干の良性ポリープ感もあるので河童の正体は医者かもしれない。

(4)は言語道断で、日頃の生活態度を省みると私などは既に尻子玉を抜かれている可能性まで出てくる。困ったことだ。

私はずっと、何の話をしているのだろう。とにかく私は、この種の根拠のない言い伝えが嫌いだ。

「市役所の屋根に雀が13羽とまっている。素数なので明後日の午後は大雨」

私がそう言っても誰も信じてくれないくせに、河童とかお盆とか花言葉とか星座占いとか誕生石とか、昔の誰かが何となく思い付いて口走ったことを受け入れないでほしい。



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