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コロナと「分断」

最近「新型コロナウイルスは人々を分断している」的な表現を目にするようになった。

たしかに、引きこもりがちな私でさえも「分断的なもの」を感じている。

この「分断」のラインはどこにあるのだろうか。私たちはなぜ「分断」されており、どのように「分断」された人びとと共存できるのだろうか。

なにが私たちを「分断」したのか

オリンピックとワクチン接種は「分断感」を深めた大きな要因のように感じられる。オリンピックに賛成か反対か?ワクチンを打つのか打たないのか?友だち、職場、家族など、慣れ親しんだコミュニティ内でも意見が分かれた。

しかし、これらはあくまでも要因の一部にすぎない。私たちはコロナ前と比べて、あらゆることについて決断を迫られる。外食するのか?友達と会うのか?旅行に行くのか?などなど。

すると、個々の決断によって小さな「分断」がうまれる。外食する/しない、友達と会う/会わない、旅行に行く/行かない。

選択の余地なく起こる事象も「分断」をうむ。コロナで失業した/しなかった、テレワークできる/できない、緊急事態宣言地域に住んでいる/住んでいない。

こうして考えてみると、私たち(の生活)はいろいろな決断や状態が複合的に絡みあって形勢され、日々変化している。そんなグニャグニャしたものを、はたして分断できるのだろうか。

グニャグニャを分断できるか

さきほど挙げた「決断」や「状態」の裏には、さまざまな事情があるはずだ。

たとえば、世の中にはいろんな仕事をしている人がいる。金融、音楽、IT、飲食、家事や育児、土木、アート、医療、出版…それぞれの現場で、基本的には生活をかけて働いている。

一部の職業の人は、コロナ禍においては仕事をするだけで見知らぬ人から批判されることがある。こんなときに営業するなんて、だとか、ライブをするなんて、など。一部の職業の人はとくに難なくそのまま働ける。また、一部の人はいまも大きな危険に晒されながら、したくもない激務に身を投じている。

仕事について書いているだけでも疲れてきた。仕事についてだけでも、みんなそれぞれの事情を抱えている。こういう事象がほかにも沢山あるのだ。分断なんてとてもできないような気がしてくる。では私が感じているこの「分断感」はいったいなんなのか。

「分断感」はどこから

以前家族と話した際、弟は友人3人だか4人だかとキャンプに行ったのだと両親から聞かされた。キャンプ関連の報道の影響もあり、私は「はぁ〜?キャンプぅ😩?」というような反応をした。私はその時分はほぼ完全に引きこもっており、スーパーに週1〜2回早朝に行くだけ、帰宅後すぐにシャワー、買ってきたものは即消毒だったので、「自信」があったのだ。すると弟は言った。

「スーパーに2人以上で行くやつ全員『悪』だと思ってる」

私はスーパーに夫と2人で行っていた。

まず荷物が重い。できるだけ買い物の回数を減らすために、一度に沢山買いたかった。そして、現場で値段などを見ながら2人で判断したほうが、無駄なく買い物ができる。

でもそんなことは弟には関係ない。スーパーに2人以上で行くような人間は「悪」なのだ。この意見は私の気持ちを、むしろいくぶん楽にした。あたりまえだけれど、人はそれぞれ違った地平からものを見ている

もしかして、この視座が固定化されたときに「分断感」がうまれるのではないか。

想像/想像の欠如による「分断」の構造

先述のとおり、私たちを形成する(コロナに関連する)要素は無数にある。それらを総合してグループ分けすることは不可能に近い。

しかし同時に、私たちは基本的に自分の視座をベースにして物事を捉える。たとえば、

A. 海外旅行に行く人をオリンピック賛成派が批判(→「分断」)し、

B. オリンピック賛成派をフェス参加者が批判(→「分断」)し、

C. フェス参加者を遠方に帰省する人が批判(→「分断」)し、

D. 遠方に帰省する人を居酒屋に行く人が批判(→「分断」)し、

E. 居酒屋に行く人を宅飲みする人が批判(→「分断」)する

というような批判(→「分断」)合戦が発生するとき、そこにあるのは「絶対正義」ではなく、その人なりの「想像」または「想像の欠如」なのではないか。

ワクチンを2回接種してもブレークスルー感染が起こり、次つぎと未知の株が発生するいま、感染を完全に防ぐことはほぼ不可能だ。

どんな生活をしたところで、感染の可能性は「ある/ない」ではなく、せいぜい「すごく高い/すごく低い」にとどまる。

F. 手を15分ごとに洗う医療従事者を、5分ごとに洗う医療従事者が批判(→分断)する

ことも、構造的にはAの例と変わらず、人によって論理的なようにも、非論理的なようにも思えそうだ。

分断というと事象のどこかにラインが引けそうなものだけれど、実際には構成要素が多すぎてグラデーションになっているように思える。そこに線引きをしているのは、ほかでもない私たち一人ひとりの想像/想像の欠如ではなかろうか。

「分断感」との共存

「新型コロナウイルスは人々を分断している」と聞くと、新型コロナウイルスがやってきて、否応なしに人々のあいだにラインを引き、分断したように思える。

しかし、無数にある事象がグラデーションを形成している現状にラインを引いて「分断するかどうか」、または「どこでどう分断するか」は、自分次第なのではないか。

私はそもそも人にほとんど会えない状態なのに限られた情報で「分断」するのはなんだかなと思うし、私のなかで誰かと「分断」したところで感染状況は変わらないし、そもそもみんないろいろな事情を抱えて行動しているだろうから、ジャッジメントは避けて精神衛生の保全を図る。

とはいえ自分や家族の身を守ることも切実に必要なので、そうしたことは行動でコントロールする。

分断感を完全に消すことはできなくても、そのようにして友人や家族に次会う日を楽しみにしたい。



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