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こちら月光生命セックス保険コールセンターです。第二十二話

第二十二話 バブルガムホリデー

 携帯のスヌーズ機能が三度目のアラームを鳴らす頃、美智子はようやくその身体を起こした。

 先日のイベント企画部へのヘルプの代休で、週の半ばに関わらず今日は休みとなっていた。
 普段であればまだしばらくベッドのなかでもぞもぞと名残惜しそうに布団にくるまっている美智子であったが、せっかくの休みの日に寝ているだけではもったいないと気合を入れてキッチンに向かった。

 ケトルでお湯を沸かしている間に、軽く顔を洗う。
 インスタントコーヒーをカップに入れて、沸きたてのお湯を注ぐと爽やかな朝の訪れを感じさせる香りが辺りに広がった。
 昨日コンビニで買っていた蒸しパンをかじりテレビをつけると、パンダの赤ちゃんが誕生したなんてニュースが流れていた。

 飲み終えたカップをシンクに置いてから、テーブルに手鏡を置きメイクを始める。
 無くなりかけたファンデーションを見て、これも今日買いに行こうと心の中でメモを取る。
 ヘアアイロンで軽く内巻きにすると、ようやく外行きの容姿が完成した。

 白いシャツにライトブラウンのミディスカート。シャツの上にベーシュのカーディガンを羽織る。姿見鏡の前で左右にポージングしてみてから、美智子は部屋を後にした。

 ラッシュを過ぎた電車は空いているとは言えないまでも、隣の人と肌が触れ合うような込み具合ではなかった。
 美智子がドア近くの手すりに掴まりスマホで上映時間を確認していると、コツンと脛に何かが当たった感触がした。

 見てみると、目の前に座っている少女――三歳くらいだろうか――のつま先が電車の揺れに合わせて踊っており、それが美智子の脛に当たったようだった。
 フリフリのワンピースを着ており、キャラクターの描かれた小さな小さな靴が振り子のように揺れている。

「あぁ! すいません! こらみっちゃん! 足をぷらぷらさせちゃダメでしょ!」

 少女の隣に座っていた母親が叱るように少女の足を抑えた。

「いえいえ、大丈夫ですよ」
 美智子が笑顔でそう返す。
「すいません、ほんとうに」
 母親が申し訳なさそうに頭を下げる。年齢は美智子と同じくらいだろうか。

「お名前、みっちゃんって言うの? 実は私もみっちゃんって言うのよ」

 美智子が少女にそう語り掛けると、少女は恥ずかしそうに母親のほうを見ながら笑顔を作った。

「そうなんですか? おんなじ名前だって。良かったねぇ、みっちゃん」
 母親が少女に向かってそう言うと、少女は身体をくねらせながら「いひひ」と笑った。

 頭を下げる母親に手を上げつつ、美智子が電車を降りる。
 ホームに吹きすさぶ風が少し冷たく感じた美智子はカーディガンの前を軽く絞った。
 目的の映画館に到着し、チケット売り場の女性に作品名を告げる。
 レディースデーということもあり、普段よりもお得な値段で観れるということもあって美智子は今日映画を観ようと決めていたのだ。

 平日ということもあり、館内もさほど混んでいるというわけではなく、唯一人気アニメが上映されるシアターの周辺だけは子供連れの家族やアニメファンらしき人たちが列を作っていた。
 美智子は上映中に飲食をするタイプではないので、売店の前を素通りし、早々と指定の座席に腰掛けた。

 今日観る映画は偏屈な大学教授と女子大生の恋愛もので、美智子の好きなハリウッド俳優が大学教授の恋のライバル役として出ているということで気になっていた作品だった。

 上映時間が近づくと、ぽつぽつと席が埋まってくる。

 美智子の三席ほど隣に一組のカップルが座った。大学生くらいだろうか、楽しそうに顔を寄せ合って会話をしている。
 そういえば彼氏と映画を観に来たのは大学生以来ないな、などと考えていると、ふと美智子の頭になぜか調査員の三上の顔が思い浮かび、美智子はそれをかき消すようにぶんぶんとかぶりを振った。

 上映が始まり、銀幕の中では教授と女子大生が時にすれ違いながらも徐々にその距離を詰めていく。
 そしてようやく二人が結ばれ、濡れ場のシーンが訪れた。
 アメリカの映画のため、当然セックス同意書の描写などはない。

 こんな時までそういう考えが思い浮かぶ自分が可笑しくなり、素敵なシーンにも関わらず美智子はひとり笑いを噛み殺した。
 エンドロールが流れ出すと、美智子は静かに腰を上げる。隣のカップルの女の子が鼻を啜っている音を背にして劇場を後にする。

 劇場近くのサンドイッチのチェーン店で昼食を取った後、予約していた美容室へと向かう。
 初めて来店するその店は、早苗に紹介されたものだった。
 毛先を整えるほどのカットとカラーを美容師さんにお願いする。

「お仕事は何をされてるんですかぁ?」
 ボブカットの若い女性美容師が当たり障りのない会話を持ちかけてくる。

「保険関係、ですかね」と美智子が答えると「えー、すごいー」と返してくる。
「保険のお仕事って難しそうですよねぇ。私も入ろうか悩んでるんですけど今度松島さんに相談しようかなぁ」

 笑顔で言ってくる美容師に対して、自分が担当しているのがセックス保険とも言い出せずに美智子は曖昧な笑顔でそれに応えた。

 美容室を出ると辺りはすでにオレンジ色に染まっていた。
 トリートメントで艶々になった髪をなびかせて、美智子は軽い足取りで百貨店へと向かう。
 ビューティーアドバイザーの話を軽くいなしつつ新しいファンデーションを買ってから、ついでに冬服も物色する。
 気に入ったコートの値札を見て、ボーナスが入ってから買おうと心に決める。

 夕食について考えるのがめんどくさくなった美智子は家の近くのコンビニでパスタとサラダとチューハイを買って帰る。
 パスタをレンジで温めている間にテレビをつけるとものまね番組が流れてきた。
 ちょうど知っている曲だったので一緒に口ずさみながら部屋着へと着替える。
 温まったパスタをテーブルに置いてテレビを流しっぱなしにしたままスマホで動画アプリを起動しお気に入りのお笑い芸人のチャンネルを視聴する。

 ふふふと漏れ出した笑いがワンルームに染み込んで溶ける。

 飲み終えたチューハイの缶をテーブルにコツンと置いてから、ハァと一つ息を吐く。

「そろそろ彼氏欲しいなぁ」

 二十代半ばの女の本音は、テレビの笑い声に混ざって消えた。


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