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26歳おばあちゃん子の死生観

おはようございます♪
前回のブログも読んでいただいてありがとうございます。
(やっぱり「スキ」(下のハートを押していただけること)嬉しい☺)

今日は片づけをしていたら、
死生観について書きたくなったので書きます。

本当はやらなきゃいけないことも
あるのですが書かなきゃ!という使命感が駆り立てられました。

私は60歳上の祖母がいます。
私が26歳で祖母は86歳です。
私はおばあちゃん子です。
小さい時からおばあちゃんと手を繋いでたくさんお出かけに行ったし、
お家でお店屋さんごっこや宝探し、
それからおばあちゃんがトイレに入っている時に
外側からドアを押さえて出られないドッキリを仕掛けたり、、、😅
とにかく大好きでした。
両親や兄弟に話せないことも話せて
私の喜怒哀楽、複雑さ、繊細さ、優しさ、
そのどれも一番知っているのはおばあちゃんだと思います。

だからこそ私は死についてずっと前から
考えてきました。
おばあちゃんが亡くなったら
自分はどうにかなってしまうと危機感があったからです。

おばあちゃんが大好きで
考えに考えすぎた結果たどり着いた
死生観をお話します。

おばあちゃんのある血液検査の数値が
あまり良くないみたいです。
まだ何も具体的なことは明らかになっていないけれど
それを聞いて取り乱さなかったのは
これまで考えてきたことが
あるからなのではないかと思います。

私が今回お話したいのは下記3点です。
①死を受け入れる
②死を受け入れた上で前向きに生きる
③自分が亡くなるということ、その後について

①死を受け入れる
私は死を現状、受け入れるようにつとめました。
(実際に病気等を含め現実味を増した時にはまたどうなるかは明言できないことだと思うのでこのように表現致します)
「その歳でそんなこと普通は考えない」
とよく言われますが、
私にとっては祖母の存在が
私にそれを考えさせました。
(本屋さんに行くとお年寄りが読まれるような
本の前で立ち止まってきました👀)
私は物事を終わりから考えるところもあるので、
そういったこともあるかもしれません。

人間の寿命は長くて約100年。
結論、私はこの長くて約100年という時間は
人間が成長し経験し、
また次の生命へと循環していくのに、
本当に豊かに生きられる時間だと思うのです。

子どもから大人になり、
成熟し、経験や深みを増し、
新しいものと共存し、生きてゆく。
それはとても自然な流れです。
一つの植物が、
芽を出し、茎をのばし、葉をつけつぼみを生み、
花を咲かせ、やがて少しずつ小さくなり、
ゆっくりと穏やかに土にかえるように。
そしてその土の中でも最後の最後まで
それは存在し続け、その瞬間まで
それがそこで生きていることに意味が存在します。
そしてその養分は次の生命となります。🌱💫

そのように考えると
私は自然な死というものを
受け入れるということに近づきました。

②死を受け入れた上で前向きに生きる
大切な人の死、自分の死、
それらを受け入れて、生きていく。
少し前の私には到底考えたくもなかったこと。
だけれども、私は祖母が亡くなっても
他の大切な人が亡くなっても
生きていくと思えるようになりました。

それが大切な人にとっての願いであり、
私の自然であり、
その人達への恩返しでもあると思えるからです。

③自分が亡くなるといこと、その後について
「恩返し」とはどういうことか
に通ずるのですが、
自分の中にはたくさんの誰かが入っています。
自分を生んだのは母と父が半分ずつ。
そして生まれてからは、
家族をはじめたくさんの誰かの言葉や
教え、愛情、交流、シンパシー、エネルギー
それらが混ざり合わさり
自己となっている。
だから、祖母が亡くなっても
祖母のエッセンスの入った私が生きているという時には
祖母も私の中で生き続けているんです。
逆に私が亡くなっても
私が話していたことや姿、存在感を通して
私はその人の中で小さくとも確実に生きている。
「影響」として、
今も刻々と誰かの一部になっている(全体の一部)と
思えてきます。

そうするとできるだけ
良い影響を残したいと思えてきますよね!☺
(肩に力を入れる必要はありません。あなたひとりではないのですから。)

以上、そのような死生観を
現状持っています。

私たちは全体の一部です。
意味があって生まれてきました。
意味の連続で生まれたのが私たちです。

「なんのために生きているんだろう?」
という問いに陥る必要もありません。
私たちが意味そのものなのです。


それでは、
本日もお読みいただきありがとうございました♪

あすʕ•ᴥ•ʔ

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