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「六番目の小夜子」について

思いつきで書いた荒削りの感想です。メモのようなもので読みにくいです。それでも読んでくれる方がいらしたら共有していただけると嬉しいです。

・学校と触媒
この作品には“触媒”というテーマが深く関わっていると思う。
学校の言いたいことは即ちサヨコが言いたいことだ。生徒達は時にそれに耳を澄ませ、学園祭のシーンでは恐れおののき、卒業のときにはなんだかよく分からないけれど丸く収まっている。
学校には触媒がいるのであり、思春期を過ごす学生は、様々なものの触媒なのだ。
触媒として描かれるのは雅子、沙世子の二人である、と思う。特に雅子は第一章で、秋の感想としてこう述べられる「花宮の巫女のような触媒的雰囲気」。実を言うとこのフレーズを思い出して考えたいがために記事を書き始めた。
作者が触媒と言っているからには定義を満たさなければいけないだろう。触媒は化学変化において、それ自身が変化するものであってはいけない。つまり学園生活を通して、雅子は変化しないのだ。ここでもし触媒というのが沙世子にも当てはまるのだとしたら面白い。あれだけ周囲へ波紋を撒き散らしてなお、彼女自身は変化しないというのだから。

・四季を冠した章と登場人物の名前

春→花宮雅子
夏→津村沙世子
秋→関根秋
冬→唐沢由紀夫

メインの登場人物が男二人、女二人なのだから四季に綺麗に当てはまるんじゃないか、と思った勝手なこじつけである。
関根秋は秋であるとして、
「花」宮雅子  花→春
唐沢「由紀」夫 雪→冬
である。

残った津村沙世子は夏ということになる。根拠にあまり自信がないが強いて言うなら夏の章で彼女の生き生きとした美しさが殊更に強調されていたことだろうか。強い生命力をもつ彼女を夏、とするのは意外と間違えていないかもしれない。

・転校生と“お客さん”
石碑の前で関根秋と設楽(正浩だっただろうか)、津村沙世子が対峙するシーンである。石碑に刻まれた2番目の沙世子の名前、それが津村沙世子と同姓同名であることに衝撃を受け、新たな考えを巡らせる秋なのだが、ここは沙世子が怒りを見せる場面でもある。
もし自分が2番目の沙世子だったら…というように彼女は語り始める。もし自分が事故で死んでしまおうものなら、きっと恨むわ、こんな場所に来たばっかりに死ぬことになったんだって。その次に他の皆を恨むわね。私はもう死んじゃったのよ!皆はこの先も生きていけるのに!

私はここに、沙世子の個人的な怒りを感じる。転校生としての経験が生んだであろう感情だ。

人生の幕がどんと下ろされて、無念だったでしょうね。と沙世子は言う。その感覚は、転校しなければならなかった彼女の心境に重ね合わせられたセリフであるように思える。この感情は最終章で沙世子によって語られているからだ。私だって、皆と同じところで、幼馴染と一緒に生きていきたかった。でも、行かなくちゃならなかったのよ!いつも新しいところへ行かなくちゃならなかった。本を持っていないので曖昧で申し訳ないが、こんな感じだったと思う。沙世子が「ただの少女」に戻る様も鮮やかに描かれている。この作品はヒロイン然り全体的に“生”のイメージが強いと思う。ホラーだけど誰も死なないし。同じ作者の「夜のピクニック」なんかは“死”のイメージを強調して書かれていたと思う。それもとても爽やかなのだが。もっと違うシナリオだったら沙世子は生きていただろうかと勘ぐってしまう。助かった。

小さい頃から何度も転校を繰り返すとは、草の根を下ろすたびにまた引き抜かれるようなものではないだろうか。
迎合するにしても、反発するにしても、自我の発達の過程で人は周りの環境に依存するものだと思う。その作業がほぼ“無かったこと”にされて、新しい環境に慣れることを強要される。
その過程で、いわゆる“なんでもできる転校生”というのは生まれていくのではないだろうか。

“お客さん”についてまた考えて書いてみたい。

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