描写の書き方について言葉のレシピ帳第1回~

0 はじめに

こんにちは、夢水です。
さて、また記事に少しだけ空白が出そうなので、今回は、『言葉のレシピ帳』と題して、自分がどんなことに気をつけて執筆しているのか簡単に書いてみようと思います。というのも、まったく視覚が使えない私が、「趣味で小説を書いています。」なんて周りの人に言うと、「どうやって小説を書いてるんですか?」とか、「小説書いてて楽しいんですか?」などと聞かれることがあるからです。それだけでなく、自分の執筆の極意やクセについて改めて文字で残しておくことで、もし筆が進まなくなったときに見返すことができるからです。そんなわけで、いろんな方々に、私の執筆について知っていただきたいと言うことだけではなくて、自分のためにもこの記事を書いていく予定です。
『言葉のレシピ帳』、第1回目は、上記のような質問にお答えすべく、小説内の描写について書いていきます。


1「書けない者」は無理して書かない

視覚を使うことも出来なければ、使ったこともない私にとって、小説を書くことのみならず、読むときには、いくら言葉での情報と言えども、視覚情報を完全に理解することは出来ません。例えば、とある文学作品を読んでいて、登場人物の容姿が長々と描かれている場合があります。文学作品とは挿絵を除いては基本的に言葉でのみ表現される芸術です。すなわち全員が、可視化された情報にアクセスすることは出来ないわけですから、容姿の描写がないと、視覚に頼って生活している方々は物足りなさを覚えたりイメージが形成しづらかったりするでしょう。しかし、そういうとき私は、長々と書かれた容姿の描写はほとんど読みません。もちろん物理的には読んでいますが、しっかり読み込んでいるわけではないのです。なぜなら、どれだけ容姿を理解しようとしても、そこには限界があるからです。だから、あくまで一つの情報として簡単に理解するだけで、そこから性格を想像したりその登場人物の人生を想像したりすることはしません。もちろん、全く読まないというわけではなく、斜め読み程度では読んでいます。
私が執筆するときも状況は同じです。登場人物が最初に登場する部分で、大抵の作品がその人の顔や体、身につけている者や髪型、持ち物の色味などについて詳しく書いていますが、私はそういう過程を最小限に留めます。なぜなら、そういう部分を書くのが面倒くさいからとか、そういう部分は作品にとって重要な要素ではないと思うからとかそういう理由ではなく、私自身が書けないからです。私は自分の顔すらまともに見たことがなく、他人に判断されて生活してきています。つまり自分の責任において、誰かの顔を描写する権利はありませんし、そういう経験も無いのです。そんな状態では、どれだけ自分の持っている言葉をうまく配合して容姿を書こうとしても、人工的だったり非現実的だったり、どうしても薄っぺらい添加物で出来た作品にしかなりません。ただ、何も書かないというのは、のっぺらぼうの登場人物になってしまいますので、物語の設定に影響しそうな部分や、知って置いて欲しい部分などについては書くようにしています。つまり、自分の想像できうる範囲では、容姿や情景の描写はするようにしているということです。これについて、容姿と情景の二つに分けて、具体的に述べていきます。


2 外見より内面

上記で、容姿については見たこともないし想像しても薄っぺらいものしか書けないからほとんど書かない、なんて乱暴なことを書いてしまいましたが、要するに外見の描写よりも、内面について詳しく書くように心がけているということです。表情を直接書くことはできないので、今何を思っているのか、そしてその思いはどういう経験や意識から来たものなのか。少し物語の動きから反れるかもしれないけれど、その人物の心の動きに寄り添った表現になるようにしています。何か動作をするときも、その動作を見た人物はこういう表情になった、ではなくて、こんなことを思ったというふうに書くようにしています。
ただ、表情を細かく記述したほうが、視覚障害者であるか否かに関わらず、読者の皆さんがイメージしやすくなるのは確かでしょう。そういうわけで、表情を見たことがないと言いつつも、表情や容姿に関する語彙を増やすことにはなるべく心がけています。イメージが着かないと、なかなか表情に関する語彙は、母語でも習得するのに時間がかかってしまうのですが、そのためには読書や芸術鑑賞を通して語彙を増やすことが大事なので、インプットは常にするようにしています。いずれにせよ、そういう習得したばかりの語彙をつぎはぎにしてもいいことはないので、ちゃんと意味や様子がわかったうえで使うようにしています。


3 情景描写の書き方

情景描写については、視覚以外で理解できる情報については細かく書くようにしています。例えば、登場人物が今いる場所ではどんな音がするのか。どんな匂いがするのか。風邪は冷たいのか、暖かいのか。つまり、周りにはどういうものがあって、どういう景色なのかとか、室内ならばどういう内装でどんなレイアウトで家具が配置されているのかといったことはあまり書いていません。もちろん、家具の配置や景色については、想像で書くことは可能ですが、これは私がそういうことを想像することが苦手なだけです。
というのも、違う視覚障害の方に聞いてみると、お話を作るときには、町中や建物で、何がどういう場所にあって、それはどういう形をしているのかという、空間的なことにこだわる人もいることがわかったのです。これはすなわち、視覚障害者であっても、普段の生活の中で、空間的なことにこだわっていれば、空間的な情景描写も書きやすくなるのです。
そして私の場合は普段から、そういうところにどうやら感心が薄いようで、道を覚えたり地図を読んだりするのは苦手です。小説で空間の情景描写を書けるようになるためにも、そして地図を読めるようになるためにも、空間を意識して世界を捉えることは重要なのでしょう。


4 基本は1人章語り

ここで、描写のこととは直接関係ありませんが、私の小説の特徴について書きます。
私の小説は、基本的に1人章語りのモノローグです。よく、3人章で語られるお話は書くのが難しいなんて言われますが、私もそれには同意です。ただ私の場合、1人章で書くことで、そのモノローグで語る主人公に関する描写をしなくても物語が成立しやすくなるからという、かなりご都合主義的な理由があるからかもしれません。もちろんこういうのは自分で意識して、なんで自分は1人章語りばっかり書くのかなんて考えて得られた考察ではないのですが。
加えて、1人章語りだと、主観的に物事が言えます。つまり、自分の経験を投写しやすくなります。3人章での語りだと、どうしても客観的に全ての登場人物を平等に描写する必要がありますし、遠巻きに全体を見渡すような描写も必要です。つなわち、支店が増えすぎてしまって整理が出来ず、自分の主観的な経験で小説を書いている私からすると難しさを感じてしまいます。


5 視覚障害のある登場人物の描写は簡単ではない

最後に、ちょっと逆説的な話をします。
上記の1人章語りで、視覚障害者の登場人物が語るモノローグを作ろうとしたことがあります。ところが、全然筆が進まないのです。どうしてでしょうか。
それはすなわち、視覚障害者は、視覚の感覚を使わないか、あまり使わずに生活するわけですから、その人物のモノローグでは、視覚的な描写はしてはいけないのです。実はこれがかなり難しいのです。要するに、全盲の登場人物のはずなのに、「赤いバラを胸に付けた女性が、古いたたずまいの店から歩いてきた。」なんてことをいきなり語り出したら変ですよね。
私はこの記事の最初で、自分は視覚を使ったことがないから、視覚的な描写は書かないんだなんて言いましたが、かといって視覚的な描写を意識的に排除しようとすると、全然うまくいかないのです。要するに、私たちは視覚情報を使って生活している人たちがマジョリティーの世界で生きてきて、普段から視覚情報や、それを元に作られた言葉によって生活しています。その状況にある種の縛りを与えた瞬間、自分は視覚障害者でありながら視覚情報にさらされているという逆説に築かされ、結局はそういう描写の大切さを知ることになるのです。


6 おわりに

以上で、『言葉のレシピ帳』第1回は終了です。自分の創作のしかたについて言葉にすることは普段あまりないのですが、いざ書いてみると楽しい者ですね。それにしても、私は鏡というガラスの板を使ったことがないのですが、自分で自分を分析するときに感じるむずがゆさと、鏡を見て感じる気持ちは、近い者があるのでしょうか。
今後もいろいろなテーマで、自分の執筆について書いていきます。
それでは今日はこの辺で。いい夢見てね。

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