僕の漫画の主人公第5話~こういうことはよくあります

今年の7月の空は明るい。7月のカレンダーがめくられた瞬間に、雨は降らなくなった。野球部の大会に向けての練習もきっと本格的になりだすはずだ。だがその前に、僕たちは試練に立ち向かわなければならない。
勉強という怪物と戦うためにはコツがいる。たいていはうまくいかない。特に僕みたいに、勉強も運動も…以下略、のような人間は太刀打ちできないのだ。僕はダメ元で机に向かって問題を解くしかなかった。ただ、鉄に勉強を教えられたり、椿に勉強を教えたりしたことで、前よりは少しだけ勉強に対する意欲がわいていた。もちろんそれだけで成績が上がるはずもないのだが…。
期末試験が終わってすぐ、校内に流れ始めたうわさは予想通りのものだった。
「ねえ知ってる?2年の成績トップが鉄保だって話。」
「知ってる知ってる。ほぼ百点なんだってね。」
「理系でも文系でもやっていけるじゃんねえ…。」
彼はそういう類の人間なのだ。自分の漫画にも書いた通りだ。基本的にテストで8割以下を取ったことはない。8割をとることも珍しいと着ている。必ず2教科は100点をとる。もちろんカンニングもしていない。すばらしいことだ。これから始まる統一模試や受験に向けての実力試験なんかでもきっとこうなるのだろう。やつは大抵どこでだっていい成績を残すのだ。
予想通り、鉄は成績トップだった。みんなは鉄に注目するようになった。鉄は野球部のエースで成績もよく、顔もいい。注目されないはずがない。鉄に勉強を教えてもらおうと列を作る人が続出するぐらいだ。やつときたら気前よくそれに応答している。野球部がシーズンだというのに大丈夫なのだろうか。
さて、一方の僕はというと…。
「くそっ!」
答案用紙のバツ印が、夏の空に似合わない冷たい顔で僕に笑いかける。また赤点確定の教科がこんなにたくさんある。今回は、数学と生物以外はすべて赤点だ。なんとか解決しないと大変なことになる。今回も追試験を孤独に受けなければいけない。
それを知った僕は、机のうえの『僕のヒーロー』を見つめる。相変わらず百点の答案用紙が山のようだ。現実でもこうなってしまったのだからしかたない。僕は学年最下位いとまでは行かないものの、最悪の事態すれすれなのだ。だから僕はいつだって、鉄保に甘えてしまうのだ。また破ってしまいたい気持ちを抑えて、僕は布団に寝転んだ。
そんな僕にスマホのバイブレーションが響く。今にも微睡みの世界に落ちてしまいそうだった僕は、あわてて画面を見つめる。そこには、ヒーローからのLineが表示されていた。
『ちょっと話があるんだけど、明日の昼休み空いてる?』
胸がぞくっとした。僕はあいつになにも悪いことはしていないはずなのに、なぜこんなに緊張しなければならないのだろう。なぜ彼は、自分を生んだ人間を呼び出したいのだろう。漫画にケチでもつけるのだろうか。それとも椿のことだろうか。どちらにしろあまりよい話ではないだろう。明日の放課後からさっそくつい試験だ。そのことも考えなければならないのに、どんどん僕の心は崩れていく。みんな僕を漫画の悪役にでもしたいのだろうか。
昼休み、僕は廊下の角に呼び出された。これは不良にリンチされるか、女子にいじめられるかのどちらかだ。そんな妄想をしながら、待ち合わせ場所に向かうと、熱心に本を読んでいるヒーローが立っていた。
「やあ、久富。」
「お、おお。」
殴られるかパンツを下ろされる覚悟を決めて、僕はヒーローの話を聞くことにした。
「期末試験はどうだい?」
パンツを下ろされるほどの衝撃はないが、明らかに皮肉をいわれてるような気がして顔が熱くなった。
「知ってるくせに。」
「しらないよ。だって僕はきみの答案用紙をみたわけじゃないから。」
もうこいつにはちゃんと事実を伝えないと話が進まないらしい。
「生物と数学以外赤点でした。」
「よかったじゃん。」
「いいかげ…!」
叫ぼうとしてやめた。やつが言葉を続けたからだ。
「一緒にやった三角関数の問題とか、ちゃんと解けたんだろ?」
具体的な単元を言われて頭がぐるぐるしたけれど、やつは一応僕の結果をフォローしようとしているらしい。まあ確かに、鉄に教えてもらったものはいままでよりよい成績だったわけだから、ちゃんと感謝しないといけないのだ。
「あ、ありがとう。おかげでいままでで一番よかったんだよ。」
「そりゃなによりだ。」
鉄は安心した顔になった。でもすぐにまたにやにやしてこう言った。
「でもほかはだめだったんだな。」
「もう、皮肉をいいたいだけなら帰りたいんだけど。」
素直な気持ちが口からとび出る。
鉄はハハっと笑ってしばらく黙って、そして今度は真剣な顔になった。
「ちょっと相談があって呼び出した。」
暴行でもいじめでもなく相談なのか。それならこんなフェイントをかけてほしくなかったと思ったが、もし人生相談と課だったらどうしようと身構える。
「なに?」
「僕さあ、アメリカで仲のよかった女の子が いたんだ。」
とてつもなく予想外の展開に驚嘆の叫びを挙げそうになった。だがそんなことも知らずに彼は話続けた。
「そいつがさあ、日本に留学しにくるらしいんだ。短期みたいなんだけど…。」
「ちょっと待った。」
僕は状況を整理するためにも、そして彼のアメリカでの生活についての好奇心もあって、彼に対して質問をした。
「その子はきみの彼女じゃないのか?」
「いい質問だ。違う。」
あっさり疑惑を否定されて少し残念な気持ちになった。でも彼はおもしろいことを教えてくれた。
「でもあながち間違ってもいない。なぜかって、僕はそいつに告白されたからね。」
ほら、そんなことだと思った。「仲のよかった女の子」なんて、状況をぼかすときに
使う表現なんだってことぐらい、ずっと漫画を書いていればわかる。それは「女友達」ではないのだから。
「え?まさかふったの?」
「そのとおり。」
「なんでふっちゃうんだよー!」
場所も考えずに大きな声で叫んでいた。通りすがりの生徒たちが怪訝な顔で僕を見る。僕は少し決まり悪い視線を送って、彼の話を聞くことにした。
「だって、日本に行くことが決まったあとだったからさあ。遠距離はお互いつらいと思ったんだよ。」
まともな回答だったから許すことにした。「気に食わなかった」とか、「嫌いだった」とかそんな回答だったらどうしようかと思ったのだ。
「でもちょっと待てよ。ふられたのにその子はあきらめずにきみを追いかけて日本へ来るんだろ?」
「まあそういうことになるなあ。」
「それってすごいじゃん。よっぽどきみのことが好きってことだよね。」
「まあそんな好かれても困るんだけどねえ…。」
恥ずかしそうにうつむく彼の顔はかわいかった。
一度そんな顔を書いたこともあったっけ。自分の書いた顔を思い出せないことのほうがよっぽど恥ずかしい。
そして僕は、その子が誰なのかピンと着ていた。同じようなシナリオを漫画でも書いたからだ。その子の名前は…。
「その子ってもしや…。」
「うん。エマだよ。」
エマとは、鉄のアメリカ時代の友人だ。漫画では小学校時代のただの友達ということになっているのだが、確かに鉄が高校生になったときに、彼の家にホームステイするというエピソードが漫画中に登場する。確かに彼女はそこで、花火をみながら彼に告白し、みごとに彼にふられるというシナリオだった。かわいくてぶりっ子の女の子という設定にした気がする。一応日本人の母親とアメリカ人の父親の間に生まれているから、日本語は話せると言うことになっている。もしほんとうにエマがやってくるんだとしたら…。
「そ、そうか…。それで相談ってなんだよ。」
「ああ、そうだね。それを言うのを忘れてた。悪いんだけどさあ、エマのホームステイ先の家、きみんちにしてくれないかなと思って。」
「はああー!?」
これはいままでで一番の予想外の展開だ。まんがにもちろんこのシナリオはない。エマは普通にヒーローの家でホームステイをすると決まっていたはずだ。なぜ勉強も運動も…、英語なんてまったくできない僕の家にホームステイさせたいんだろうか。いくらエマが日本語を少し話せたとしても。
「ことわる。」
彼は僕の答えを聞いてもさほど驚かなかった。前から断られると予想していたのだろう。それならなぜ僕に頼むのだろう。
「だよね。でもお願いしたい。」
「だから無理だって。僕、英語しゃべれないんだよ。」
「エマは日本語も話せるし、僕なんかと一緒にいるより、まったく知らない人の家にホームステイしたほうが勉強になるだろ?」
「だからって、なんで僕なの?椿でも神林でも勇ちゃんでも、いくらでもいいでしょ。」
僕はまだこの急展開を受け入れたくなかった。ヒーローを好きな女の子の世話をできるほど、僕はかっこよくはない。なにも取り柄なんてない。彼女は僕といたってつまらないだけだ。むしろ、ヒーローと彼女との今後をはっきり決めるべきではないのか。
彼はあきらめなかった。
「きみしかいない。きみは友達だから。」
こういう技を使われると、もう反抗できない。「友達」というワードが使われると、人間は簡単に縛られる。ともだちがいなくなることのほうが怖いからだ。そして、臆病ものの僕もそうだ。僕みたいになんの特徴もない人間は、いつだってともだちを失う危険性を持っている。だからヒーローから友達宣言をされれば、お辞儀を何回しても足りないぐらい感謝しなきゃいけないのだ。
「それにさあ、大会の結果によっては、全国にいける可能性だってあるんだぞ。」
突然理由が追加されて頭がついていかなかった。とにかくヒーローが捨てた女の世話を、僕は仰せつかってしまったらしい。しかも、ただの女ではない。アメリカの女だ。日本の同世代の女とも一緒に住んだことがないのに、いったい彼女がホームステイしている間、僕はどのように家の中でふるまえばいいんだろうか。
家に帰るなり、僕は母親と交渉しなければいけなかった。僕は、母親がしぶってくれることを期待した。ところが、親はまったくの逆だった。
「あらあら、ホームステイ?それってお金もらえるんでしょ?いいじゃない。あんたも英語の勉強できるんだし。」
ひじょうに短絡的な理由だ。初戦は報酬目当てだと思ったが、ホームステイというのがどれだけ気の使う作業なのかを母親は知らない。
父親は母親より権力が弱いから、母親がOKすればもう決定なのだ。部屋の中で、僕はエマが登場するシーンを見つめる。白人の彫りの深い顔の少女を書いた。親の趣味でみたアメリカ映画に出てくる女の子をまねして書いた枝。ほんとうにこの絵のままの少女が僕の家にやってくるというのだろうか。漫画の中で、彼女は海に入ってははしゃいでいる。キスをするところまでは書いていないけど、少なくともエマが鉄をすきだったという事実に間違いはないのだ。もしアメリカ人の女の子を彼女にできたら、僕の学校での立ち位置はどうなるだろう。そんなかないもしない妄想を、漫画越しにずっと考えていた。
7月は飛ぶようにすぎた。追試験もなんとかクリアし、僕はもうそれで満足だった。漫画部では文化祭に向けて絵を書き続けた。たいして色のない日常が流れた。
「おい!野球部決勝まで行ったぞ!」
終業日、学校の話はそれで持ちきりになった。県大会でうちの高校はめでたく決勝まで勝ち上がった。それはすべて鉄のおかげだということになった。うちの高校が決勝まで勝ち上がったのは、20年ぶりらしい。
「決勝いつなの?」
「明日だって。」
「まじ?いけるかなあ。」
「県立体育館でやるらしいぞ。」
「それなら電車で1本だから行こうぜ…!」
クラスのみんなは決勝に行くつもりのようだ。僕はというと…。
「なあなあ、久富!あのヒーローきみの活躍は見に行くのか?」
田浦がやってきた。
「さあな。気が向いたらいく。」
「おやおや、いつになく元気がないな。さてはヒーローに恨みでもあるのか?」
「そりゃあるよ。僕が書いてた漫画の主人公のはずだったのに、現実世界に現れたんだから。」
「ああ、察し。」
田浦はそういうとさっさと席に戻ってしまった。
「おまえ、明日どうすんの?」
つぎその話題をきかれたのは、学校の出口で勇ちゃんにばったり会ったときだった。
「明日って決勝のこと?」
「そう。」   
しばらく考えていたが、思っていたことを口にしてみた。
「まあ一応見に行くよ。せっかくの決勝戦だし。」
勇ちゃんはそれを聞くと、小さくうなずいて、そして少し残念そうな苦笑いを浮かべた。
「そうだよな。だって、おまえの漫画の主人公と同じ名前のやつが先発投手だもんな。そりゃきちんと応援してやんないとな。」
最近勇ちゃんと二人で話していないからなのかもしれないけれど、勇ちゃんはどことなく前よりいらいらしていた。きっとそれは僕に対してというよりも、鉄保に対するものだと僕は思っている。もしそうでなかったらどうしようかと心配にもなるが。
「勇ちゃんはどうするの?行かないの?」
わかりきった質問をしてみる。勇ちゃんはこんなことには興味は示さないことなんて前からわかっていたことなのだ。
「野球興味ないし、明日は塾もあるから行かないかな。」
「あ、そうか。相変わらずまじめだね…。」
最後の言葉は言うつもりはなかったけれど、気がついたら口の中から飛び出していた。
「ルカはどうするのかな。」
気まずい雰囲気を変えたくて、ここにいない人間の名前を出してみる。勇ちゃんは無表情のまま答える。
「さあね。」
まぶしい日差しに包まれたこの世界は、実に残酷に僕たちを焼き尽くしていく。僕みたいになんの取り柄もない、なんの色もない人間の人生にも、まぶしい日差しは降り注いでいる。
つぎの日、僕はどうやって県立体育館に行ったのか覚えていない。体が勝手に電車に乗って、勝手に体育館の入り口を通り抜けて、勝手にスタンドに坐っていた。近くには、同じ学校の生徒がひしめき合っている。佐野や田浦と一緒に来た方がよかったのかもしれないが、その日の僕にはそんなかんがえは思いつかなかった。
「ルカ。もしうちの学校が勝ったらさ、写真撮ってもらおうよ。鉄くんと一緒に。」
「はあ!?なに言ってんの?あたしあいつ興味ないし。そもそも、まだ全国制覇すらしてないっていうのに…!」
近くに神林がいることを知ったのは、自分が席についてからまもなくのことだった。何人かの友人と観戦しにきたらしい。僕も早く佐野や田浦を探さないといけない。神林とだけは会話を交わしたくなかった。今僕はそんな気分でないからだ。そう思って、神林のことをずっと見ていた僕は馬鹿だった。
「あ…。」
神林がこっちをにらんでいた。相変わらず怖い目つきだ。
「誰?知り合い?」
「うん。漫画部の男子。」
「へえー…。」
神林の友人たちは僕を怪しげな目で見つめた。
僕は神林から目をそらそうとしたけれど、こうなってしまった以上何かを話さなければいけない。
「見に来たのか?」
「そうだけど…。」
「野球に興味でもあるの?」
「別に。友達に誘われたから来ただけ。」
神林のほうも、今あまり僕に会いたくなかったようだ。お互い相性が悪いからしかたないのだ。
僕は神林の存在は気にしないことにした。椿でも現れてくれないだろうか。まあ現れないだろう。椿はマネージャーで忙しいのだから。
試合開始が近づくと、別に自分がプレイするわけではないのに緊張してきた。鉄には勝ってほしいと思う。でもほんとうに勝てるのかはわからない。相手はなんと、強気の藤力である。ヒーローとはいっても勝てるかはわからない。
試合が始まった。やはり先発は鉄。相手の先発は藤力だ。試合は完全に投手線になった。
最初に点をとったのはうちの高校だった。でもすぐに桜堤も点を取り返した。それがもう1回続いた。そしてしばらくは2対2のまま推移した。
点をとられたときもヒーローは笑顔だった。点をとられることは、彼にとっては予想の範疇だったのだ。顔色一つ変えずに、彼は投げ続けた。
「もう、ルカったら、投手線だからって寝ないでよね。」
「だってつまんないよ。全然点入らないし。」
「いい勝負だと思うけどなあ、あたしは。」
神林と彼女の友人の話し声が聞こえる。なんだかヒーローを侮辱されたように思えて腹が立った。
試合は6回の裏に入っている。確かにつまらない試合ではあると思うが、少しずつしあいは動き始めている。それも、あまりよくない方向に。
ヒーローは桜堤打線に押し込まれていた。きゅういは落ちていないはずだ。でもおそらく、球の向きが読まれてしまっているのだろう。彼は確かにすばらしい球を投げることができる。だがどんな人間だって、自由自在に球を投げられるわけではない。球の向きが読まれるのは当然なのだ。それをどう回避するかが、強い野球選手になれるかを分ける。
「ねえ。鉄くん、なんか具合悪そうじゃない?」
「あ、確かに。顔が青白いかも。」
「きっと疲れてるんだよ。練習めっちゃ頑張ってたと思うし。」
「でも鉄ならなんとか頑張れるっしょ。あと3回だぜ!」
僕は気づかなかった。鉄が具合が悪そうだということを。彼の顔が青白いことを。彼はいつだって笑顔に見えたのだ。いつだって輝いているように見えたのだ。彼が具合を悪くすることなんてありえない。なぜなら彼はヒーローだから。もし彼が負けてしまったら、彼は完ぺきなヒーローじゃなくなるんだろうか。みんなの中から彼の存在は消されてしまうんだろうか。
「やばいよ!ツーアウト満塁だって!これ打たれたら勝ち越されるよ。」
神林の友人がヒステリックな声を出す。ここは静かにみるべきシーンだというのに、あまり大きな声を出すべきじゃないのに…。
神様は意地悪だ。ここでた席に立ったのは藤力だったのだ。藤力は、ピッチャーだけではなく、バッターとしても優れていた。それは鉄も同じだ。だから、どちらが優れているかがここで証明される。これこそ、ヒーローが悪魔のボスと戦う最終決選…、いや最終ではないけれど、決選のときだった。
そこで僕は自分でも気づいた。鉄の顔色がいつもと違う。こんな絵は書いたことがない。彼が顔を青白くしたシーンなんて、僕は書いたことがない。僕が書いたのは、いつも笑顔で幸せな彼の顔だけなのだ。
ヒーローは悪魔に勝つべきだ。この世界を救うべきだ。そして彼にはそれができるはずだ…。
早いカーブを投げた彼は突然マウンドに倒れ伏した。彼は腹を抑えて、苦しげにうめいているように見えた。これは彼の演技だろうか。それとも本当に深刻な事態が起きたのか。
打たれた球はホームランだったけれど、そんなことはどうでもよかった。それに注目している観客もあまり多くなかった。みんな倒れ伏したヒーローをみていた…。
病院で眠っている彼の顔をみたとき、胸がぞっとした。彼がこのまま死んでしまうんじゃないかと思った。相変わらずきれいな顔をしている。気持ちよさそうに眠っている。このまま死んだっておかしくない。ヒーローが死んだ世界はどうなるんだろうか…?
倒れてすぐに、ヒーローは救急車で運ばれた。僕がここにこれた理由は、留美さんに来てほしいと頼まれたのだ。体育館のそばには大きな県立病院があったからそんな遠くまで移動しなくてもよかった。でも留美さんと二人で乗った車は、ずっと遠くまで走ってるみたいだった。
「ごめんなさいね。久富先生、驚かれてるでしょうね。」
「あ、はい。でもきっと疲れただけですよね。なんともないですよね。」
「ええ。なんともないと思います。こういうことはよくあるんです。」
「え?」
「こういうことはよくある」。留美さんのその言葉の方が、鉄が倒れた瞬間よりも驚きだった。そんなことは、作者である僕も知らない話なのだ。
「よくあることなんですか?」
「そうなんです。いつだったかしら。5年生だったと思うけど、彼、野球の練習中に倒れたことがありました。それが最初でした。おじさんが医者だからみてもらったの。そしたら、心臓の病気だってことがわかって。」
心臓の病気…。明らかに付け加えられたシナリオだ。彼は病気をしない。学校を休んだことはほとんどない。漫画ではそう書いたはずだ。お見舞いでで友達の病院に行く話は書いたけれど、自分がお見舞いされることはないのだ。漫画にはそんなふうに書いたはずなのに。
「久富先生は私たちを生み出してくださった人です。だから保のことを知ってほしくて。保と仲よくしていてほしくて。だから病院までついてきてもらいました。」
留美さんの声はひじょうに落ち着いていた。きっと鉄が倒れることなんて慣れているのだろう。もしかしたら予想していたのかもしれない。
「治るんですか?彼の病気…。」
答えに期待はしていなかった。どうせ治らない病気だってわかっている。あんなふうに倒れた彼を僕はいまだに受け入れられない。
「ええ。おじさんいわく治る確率は低いって。病院で手術したほうがいいんじゃないかとも言ったんですけど、あの子、あんまり乗り気じゃないんです…。」
彼は有機がないから手術しないとか、お金がないから手術しないとかではない。病気である自分の体をも受け入れようとしているのだ。彼は自分にも他人にも優しい。それも彼のいいところなのだ。
「あたしは、あの子に安心して生きててほしいから、なんとしてでも直したいんですけどね。彼の病気…。」
留美さんの声がそのときだけは、少し悲しげに響いた。
「そんな顔しないでよ、久富さん。」
突然声をかけられてまたぞっとなる。後ろに幸が立っていた。
「あ、さっちゃん。大丈夫かい?」
「さっちゃん」と呼んだのはこれが初めてだった。留美さんが、まるで僕のことを家族のように受け入れてくれたからそう呼んだのだ。幸は、それを聞くと、予想通りくすっと笑った。
「うれしい。久富さんにそう呼ばれるなんて思ってなかった。」
「あ、ありがとう。」
「あたしは大丈夫。それより久富さんのほうが心配。」
「ごめんよ。ちょっとびっくりしちゃって…。」
「そっか。まああたしは2回目だから全然びっくりとかしないんだよね。また兄ちゃんが倒れちゃったなあみたいな…。」
「2回目なんだ。」
「あたしが覚えてるかぎりだけどね。兄ちゃんが中学のときだった。」
幸は、病室の明かりの向うに何かを探すみたいに、じっと遠くをみながらそう言った。この家族はみんな冷静だ。
「兄ちゃんって、こういうときはかわいいなって思うの。」
幸はまたくすっと笑った。
「かわいい?」
「うん。兄ちゃんはね、いつも強いの。野球させたら誰よりも強いし、勉強だってめちゃできるし、ギターだってうまいんだし、料理だってできちゃうんだよ。でも…!」
もうそれ以上兄のことをほめるのはよしたほうがいい。そう言ってやりたかった。ほめればほめるほどに、幸の目から涙があふれるのだ。
「こうなった兄ちゃんは、いっつももう目をさまさないんじゃない勝って顔するの。いっつも強いお兄ちゃんが嘘みたいに…。怖くなっちゃうんだ…。兄ちゃんがいない世界なんて…。だからあたし、医者になるって決めたの…!」
幸は、大きな声は出さなかったけれど、そのあと泣き続けていた。なきたいのは僕も同じなのに、全然涙が出なかった。でも僕にはその理由がわかった。自分の書いたシナリオとは全然ちがうことが起こって、頭が麻痺していて、感情が湧き上がってこないのだ。僕はこの人たちとは違う世界に住むべき人間なのだ。だから感情に素直になれないのだろう…。
ノックの音が響いたのはそのときだった。とてもあわてたノックだった。なにかよからぬことでも起こったのだろうか。
「はい。」
幸がそのノックには似合わない落ち着いた口調で返事をした。
すると、背の高い白衣姿の男が飛び込んできた。
「おい!保!また倒れたんだって?無理すんなってあんなに言ったのに…。」
「ひーちゃん。心配なのはわかるけど静かにして!!兄ちゃんねてるんだから …。」
幸もひーちゃんにたいして大きな声を出したのだから人のことは言えないと思いつつ僕はその男をみた。眼鏡をかけた長髪長身の彼を僕は知っている。いかにも利発そうな彼の顔を見たときから気づいていた。彼こそが、鉄保の兄、鉄仁(クロガネヒトシ)だ。
鉄仁は、とても急いでここまで来たのだろう、息が落ち着くまでに時間がかかった。しばらくは誰とも会話をしなかった。だが最初に彼が会話を試みたのは僕だったのだ。
彼は息が落ち着くと、じっと僕を見つめ、そして驚いた顔になった。
「きみが久富亮か?」
「はい。」
「保の兄の仁だ。わざわざ見舞いに来てくれたんだな。」
「あ、はい。」
仁はため息をついて保に話し掛ける。
「ああ、保。友達にも心配かけさせてるんだからな。ちゃんと反省しろよ…。」
「仁さん、そんな攻めないでやってください。彼、めっちゃ練習頑張っていたんです。全国行くって目標があったから…。」
「体を壊したら全国にもいけないだろ…。」
どうやら仁はほかの家族と違って、かなり取り乱しているようだ。だって彼は、弟思いの優しい兄なのだ。それは僕が漫画に書いたとおりだった。
「幸。母さんはどこだ。」
「病院の人と話してる。入院するかどうか決めるんじゃない?」
「そうか。まあいつも入院してるしな…。」
「いつも」という単語にはやはりひっかかる。僕にとってそれがいつもではないからだろう。作者だけが漫画のページをめくれていない。
そんな話をしていると、突然ベッドのうえで音がした。みんなはベッドのほうをみた。
それがヒーローの目覚めた瞬間だった。
「あれ?ここは…。試合に戻らないと…。」
「馬鹿!なにが、『試合に戻らないと』だ。今どういう状況下考えろよ!」
仁さんが相変わらず大きな声で弟に呼び掛ける。幸はもう注意する気もないらしい。
「あ、兄さん来てたんだ。またやっちゃっだな、僕…。」
ヒーローからも、自分が発作を起こしたことが日常であるという趣旨の発言を聞いてしまったものだから、もう絶対にそうなのだと確信した。
「おまえなあ、漫画家少年の友達にも心配かけてるんだからな。」
仁さんに漫画家少年と言われて、少しくすぐったい気持ちになったのと同時に、保が笑いかけてくれたので安心した。
「久富。ありがとう、見舞いにきてくれたんだな。」
「あ、うん…。大丈夫なの?」
「ごめんよ、心配かけて。ちょっと心臓弱くて。決勝で緊張しちゃったからなんだと思う…。」
「でも…。」
(そんなこと僕は漫画に書いてない!)
と言おうとしたんだろうけど、言えるわけがなかった。
「たぶん僕は入院することになるからさ。明日エマをむかえに行ってくれないか?」
あまり思い出したくないことを思い出させられた。明日からアメリカ人の女が僕の家にやってくる。それも、こんな顔をしているヒーローをすきだった女の子だ。どうせなら、ヒーローじゃなくて彼女が倒れてしまえばよかったのになんて思ってしまうほどだった。
そして、きっとエマは失望する。いきなり空港で迎えに来た男が、こんな僕だったら。でも僕じゃなかったら誰が迎えにいくのだろう。幸に来てもらおうか。仁さんにきてもらおうか。でも、ホストファミリーが迎えにいくことがあたりまえなのだとネットに書いてあったのは確かだ。それは常識なのだ。自分のルックスとか英語力を気にしている場合ではないのだ…。
エマの話をすると、幸と仁さんはそれぞれ違う顔をした。
「エマさん明日来るの?日本の折り紙教えてあげるって約束したのに全然練習できてない。でもうれしいなあ…。」
そう言って笑顔を見せるっエマにたいして、
「またあのうるさいのが来るのか。おれはあいつの面倒はみないぞ。」
とため息をつく仁さんがいた。そのまったく違う反応を聞くかぎり、僕はどうふるまっていいかがわからなかった。明日からやってくるなぞの女は、きっと僕を散々困らせることになるのだろう。
そのあと僕はしばらく鉄兄弟と話をして、夕方には家にかえることにした。保はまだあまり本調子ではないようで、口数は  少なかった。でもそれは体の具合というより、甲子園の切符を失ったからだろう。
夕方、病院から出ようと玄関ホールにたどり着いたとき、走って飛び込んでくる少女とすれ違った。
「師匠…!」
少女は走っていたのに、突然立ちどまって僕のほうを振り向いた。僕はほんとうに誰かわからなかったから、少し驚いた顔になった。すると少女はまた大きな声で、「師匠」と僕の名前を呼んだ。僕のことをそう呼ぶ人間は一人しかいない。
「椿。」
「やっぱり来てたんですね。病院。」
椿は顔中に汗を書いていた。きっと大会のあとの片付けや打ち上げで、かなり疲れていたはずだ。それなのにやっぱりじぶんの好きな男の子に対してほんとうに彼は一生懸命だった。甲子園にいけることよりも、好きな男の子のそばにいることのほうが、椿にとっては大事なのだ。
「鉄のかあさんに来るようにいわれてさ。先に見舞いに来てたんだ。」
椿は顔の汗をぬぐってから、僕のほうを見た。
「大会のほうはどうなったんだ?」
「大会は…。」
椿は言うのをしばらくためらってから悲しい知らせを伝えた。
「先輩が倒れて、新しいピッチャーに切り替わってから一気にこっちの首尾がくずれて、7回に5点、8回に2点、9回に1点をとられて、完敗しました…。」
やはりヒーローは強い。ヒーローがいない世界は簡単に壊れる。悪魔がすぐに世界を食い尽くしてしまうから。ヒーローと悪魔がいるから、この世界は回っているのだ。ヒーローがいなくなった世界で、勝ち誇った悪魔はどんな顔をしたのだろう。
「そうか。残念だな…。」
「はい、悔しいです…。」
椿はうつむいたまま、なにか考えているようだった。走って病院まで向かっていたときとは嘘みたいだった。
「でもあたしは…。」
椿はそういうと、震えた声に変わった。
「全国にいけなかったことが悔しいんじゃないんです。あいつに…あの筋肉馬鹿に勝てなかったことが悔しいんです…。」
椿は怒っていた。いつも僕に見せるようなからかった怒り方じゃなくて、本気で怒っていた。5月の練習試合のときから椿はあの男のことが嫌いになった。あのときから、彼女はあの男を倒したくてしょうがなかった。なぜならあの男は、彼女の好きな男の子を傷つけたから。
「きょうもなんか言われたのか?」
「直接は言われませんでした。でも、試合が終わったあと、明らかにチームメイトと、先輩の悪口を言っていました。あいつはスポーツマンシップのかけらもないんですよ。そんなやつが、どうして甲子園の地を踏むんでしょうか…。そんなのおかしいですよ…。」
椿は今にも泣きそうだったけれど、けっして涙は見せなかった。それは、僕と椿が話終わるまでそうだった。
「ごめんなさい、師匠。あたしの愚痴なんか、全然おもしろくないですよね。お見舞い行ってきます。」
椿は申し訳なさそうに立ち去ろうとした。僕はどうすればよいのだろう。椿を励ますべきなのだろうか。椿を責めるべきなのだろうか。無視するべきなのだろうか。何も言わないで普通に分かれればいいのだろうか…。僕は馬鹿だから、なにも考えられなかった。
「あ、あのさ…。」
立ち去ろうとする彼女と、僕はただもう少し話したかった。
「鉄のこと、ちゃんと励ましてやってくれないか?あいつ、自分が倒れたことをきっとすごい責めてるから。あいつは悪くない。あいつを苦しめてる病気が悪いんだって。あいつは全国にいける実力があった。きっと藤力なんて簡単に倒せたはずだって。ちゃんと言ってやってくれないか?師匠からの頼みだ…。」
僕はいやだった。ヒーローとヒロインがこれ以上悲しい顔をするのは。僕は悲しいことは漫画には何も書いてない。だからみんな笑っててほしい。だからこんな励ましにもならない言葉をつむいだのだ。
椿は僕の言葉を、またうつむいて聞いていた。でもしばらくしてにやっと笑った。
「やっぱり師匠は優しいですね。あたしも見習わなきゃ。愚痴ばっかりこぼしてないで…。」
どれだけ鉄のことがすきでも、やはり椿にとっての師匠は僕なのか。彼女は僕をどんな位置でみているのだろう。いまだに僕は彼女の心のアングルが見えない。もっとはっきり漫画に書いておくべきだったのだろうか。いや、そんなあいまいなアングルで、漫画を書いたつもりはないのだけれど。絵で表せない心模様は、どこまでも僕を困らせる。
椿は、病院に走って来たときよりも笑顔になって、玄関の無効に消えて言った。僕はむしろ、いろんなことが起きてしまったその日のことを考えて、複雑な気持ちになった。突然倒れた鉄。三者三様の鉄兄弟。エマがやってくるという事実。相変わらず複雑なことばかりする椿。ヒーローのいない世界の現状…。
絵にかけない人生の構図は、どこまでも続いている。
そして次の日、夏休みで人のごった返した空港の到着ロビーに一人で立っていた。人が多いからうまく街合わせられるのか心配である。エマは本当に現れるのだろうか。やはり僕がホームステイ先だとしって、日本にくることをあきらめるのだろうか。
彼女は街合わせの時間になってもこなかった。外国人は時間にルーズだと聞いたけれど、それにしたって心配である。もし本当にはぐれてしまったらどうしようか。連絡先も知らないし、流暢な英語でいきなり話かけられたら、僕はどんなふうにして答えればいいんだろう。
まだ悪いことはなにも起きてないのに、どんどん僕の中で不安が増幅していた。機能鉄が倒れたせいもあるのだろう。この不安は風に乗って消えたりすることもない。
不安は消えないけれど、電話は鳴る。こんなときに差のや田浦からの暇電話だったら、僕は本当に電話を壊していただろう。
電話の主は幸だった。昨日病院で連絡先を交換したばかりなのに、さっそく生かされることになろうとは。いったい何用だろう。
「もしもし。」
「あ、久富さん。今空港だよね。」
「そうだけど。エマが見つからなくて…。」
僕が不安げにそういうと、幸は驚くべきことを僕に告げた。
「エマさんも空港のロビーにいるみたい。いくら探しても見つからないって、ついさっき電話が…。」
いくら探しても見つからないというのはちょっとおかしいような気もした。確かに人は多いけれど、ちゃんと探せばすぐに見つかるはずだ。それともよっぽど日本語ができなくて、日本語が読めなくて迷っているのだろうか…。僕がそんなふうに不安を増幅させていたら、電話越しの幸の声と混ざって、無効から甲高い女の声がした。
「Sorry? Are you Ryo Hisatomi?」
その少女は、まるでアメリカからダイレクトに現れたみたいに、声がするまで姿はまったく見えなかった。ほんとうに、風に乗ってやってきたみたいだったのだ。
「Yes.」
僕は声のしたほうをみた。背の高い、アクセサリーをたくさんつけて、派手な色の靴を履いた少女がそこには立っていた。
こんな派手な人間を見失うわけがない。彼女こそエマである。

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