僕の漫画の主人公第7話~きみにこの花をあげる

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夏の終わりというのは人を悲しくさせる季節だ。夏休みという安息が終わる。厚くて元気な季節が、少しずつ寒くて静かな季節に向かっていく。日がだんだん短くなっていく…。そんなことを考えると、9月が始まったときは、いつも悲しい気持ちになってしまう。
今年もそうだった。でも今年の悲しさはかなり純粋な理由によるものだと思う。
にぎやかだったぼくの家は、エマがいなくなってから太陽が陰ったみたいになった。こんな気持ちを感じたのは久しぶりだった。実際にエマがいたときは、そんなことは思わなかったのに、いなくなってからどんどん寂しさが募っていった。あんなわがままでうるさい子悪魔でも、いなくなったらつらい気持ちになるらしい。つまり、どちらにしろ、ぼくは彼女を必要としていたのかもしれない。ただそれを認めることは、なんだか自分にとってよくない気がした。なぜそうなのかはわからない。きっと自分が意地を張っているだけなのだ。エマのことを必要とするということは、エマのことを少し認めてやるということだ。だが、そもそもエマはぼくを認めてくれているのだろうか。「ばか」となんども罵ったのだから、ぼくはエマに寛大になりたくないし、なる必要もない。それはぼくが負けることだから。こんなふうに自分の意地を理論家させてみるけれど、簡単に言ってしまえば寂しいくせに意地を張ってだけだということだ。それがぼくの夏の終わりの修正だった。寂しいくせに、夏という季節の暑さに嫌気がさして、夏が寂しいことを認められない。だけどやっぱり気持ちのほうではさみしさを感じている。こんなときは、ますます家から出たくない。家から出てしまえば、そこには夏の終わったあとの残響が聞こえてきて、さらにぼくを苦しくさせるからだ。
でもそんなふうにわがままも言ってられない。学校は始まる。季節は進む。
学校に行くと、みんな夏の思い出を語り合う。適度に日焼けした生徒たちが、楽しそうに肩を並べる。ぼくは海に1回行ったきりで、日焼けなんてしていないから一人で机に坐って漫画を眺めている。
「ああ、久富。そんなさみしそうな顔するなよ。」
佐野が、新しく発売された漫画、『猫のプシケ』を机に持ってきてそう言った。ぼくはこの漫画をまだ読んだことはなかったので、そちらのほうに興味がわいた。
「だってさみしいんだもん。夏休みも終わっちゃったし…。」
「そうか?まだまだ楽しいことがたくさんあるんだから大丈夫だって。文化祭もハロウィンも…。」
そこまで言って、佐野も肩を落とす。楽しい行事を並べてはみるけれど、結局夏の呪縛から逃れることはできないようで、黙りこんでしまった。
「でも、今年の夏は楽しかったな。」
佐野が、漫画のページを適当にめくりながら言った。その漫画は、長い髪の少女が、猫の姿をした男の子と付き合うというかわいい内容の漫画らしい。ちょうど佐野が開いたページでは、猫の少年が海の近くを少女と走り回っている。わざとこのページを開いたとしか思えない。こんな楽しそうな季節がずっと続けばいい。そう思わせるほどに美しい描写だった。
「そうだな。エマのやつ、ちゃんとアメリカに戻れたのかなあ。」
「戻れたどころか、あの子パワフルだから、日本銃旅しそうだけどね。」
佐野がエマについてたのしそうに話すので、また夏の思い出がよみがえってきそうになった。
「でももう戻ってこない。」
すると、佐野はにやにや笑い出した。
「もしかして、狙ってた?」
「狙って立ってなにを…。」
「まあ、エマさんはかわいいよ。でも、あの子には好きな男がいたんだろ?」
エマのことを狙っていないけれど、エマが鉄に片思いをしていた事実を思い出したぼくは、なんだか胸の中がむしゃくしゃした。それはなににいらいらしたかと言われると難しい。エマに対して、鉄に対して、自分に対して。そして、それを思い出させた佐野に対しても。
「ぼくはあいつは好きじゃないよ。結局エマは鉄と話そうとしなかった。つまり根性がないってことだろ?その癖に海に行きたいとか祭りに行きたいとか言うんだぜ。そんなの編だよ。そんなやつとは付き合えない…。」
「なに怒ってるんだよ。まあ、たしかにあいつは変なところもあるけど、それはそれでしかたないんじゃないの?女ってさ、面倒くさいんだし…。」
佐野が極論を言ったせいか、自分の中のいらいらは少し収まった。たしかにぼくたちみたいに彼女のいない人間からすると、女は面倒くさい生き物だから近づく必要はないと思ってしまう。それでいいのかもしれない。でも、ぼくは彼女をつくりたくないわけではない。恋をしたことだってある。彼女を作ることにあこがれているのにぼくは女と付き合うことが怖いと思ってしまう。つまり、ぼくだって根性がないのだ。エマの根性のなさの否定をしている場合ではない。でもぼくは、エマと鉄が幸せになれない結末を、どうしても認めたくなかった。それはぼくが男だからではなく、ぼくがこの漫画を書いていたからだ。みんなが笑える漫画を書きたかったのに、どうしてこんなに悲しい結末になるのかが、ぼくには理解できなかった。
「なあなあ、お二人さん…。」
突然田浦が現れた。なにやら楽しそうである。
「なんだよ。なにかいいことでもあった?」
ぼくが疲れたような口調で聞くと、田浦はにやにやしながら言った。
「いいことあったよ。あのねえ、さっきねえ、あの有名カップルが一緒に登校するのをみたよ。」
さて、これまた問題である。鉄はほんとうに彼女をつくってしまった。それも、漫画のシナリオ通り、朝霞椿と。それは漫画のシナリオ通りなのでよいと思うのだが、そのつくり方が問題だったのだ。
それにしても、さっそく二人は一緒に登校してきたわけだ。なかなかよい滑り出しだ。漫画ではカップルお決まりのリア充街道と言ってよい。だがその過程で、彼らは必ずなにかを捨ててその街道を歩くことになるのだ。だから全員が幸せになれるという確率は低い。
「ほんとに?」
「ほんとだよ。お手手つないで、人生の幸せを全部二人で使っちゃったみたいな顔でさあ…。」
「花火大会のときに付き合うことになったんっしょ?なんだよ、あの二人。最高じゃねえ?」
二人は楽しそうに彼らのリア充街道について語っていた。
この話は漫画部でも話題となった。
「花火大会で告白して、二人で登校して二人で弁当食べるって…。うわさだと思ってたけど、ほんとなのね。」
神林が、まったく興味なさそうに尋ねる。まあ漫画部だけでなく、鉄が彼女をつくった話はうちの高校のトップニュースになっているわけだから、興味がなくても聞こえてしまう話だった。
「ねえ、久富。」
神林は突然ぼくの名前を呼んだ。なんだかいやな予感がした。
「なに。」
いやな予感がしたからいやな返事のしかたをした。
「あんた、この二人のこと漫画に書いてあげなさいよ。喜ぶわよ。」
ぼくはこの二人のことをすでに漫画に書いている。漫画部員には見せたことはない。だから知らないのも当然だ。だが、明らかに神林はぼくにいやみを言っている。鉄保がぼくの漫画に登場しているからこんなことをいうのだろう。でも、ぼくにいくら嫌みを言ったところで、実際に付き合ったのはあの二人だ。作者を攻められても困る。作者を攻めていいのは、漫画の世界だけだ。現実世界のキャラクターの行動までは監視できない。
「まあまあルカピー。そんな怒るなよ。どうせおれたちとは違う国の人間なんだし…。」
佐野が神林をなだめようと必至で頑張る。神林はたしょう静かになったが、まだあまり満足していないような顔だ。一方の勇ちゃんは、この話を完ぺきにシャットアウトしようとしているようだった。
「おい。そろそろ文化祭に向けて本腰いれてやらないと、時間ないぞ…。」
そういえば、ぼくは文化祭で椿と漫画勝負をするという話をずっと前にしていたのを思い出した。それを思い出して、口に出してしまったぼくは「ばか」だった。
「そういやあそんなこと言ってたな。彼女さん、漫画書いてるのかな?」
佐野が笑顔になって話を進める。
「こいにかまけて、漫画なんか書いてないでしょ、きっと。」
神林は相変わらず皮肉を言うのであった。
勇ちゃんは、一人黙ってなにか書いているようだったが、ふと顔を挙げて、思い出したように鞄からなにかを探し始めた。
「そうだ。知り合いカラ、漫画家さんの展覧会のチケットをもらったんだけど、一緒に行かないか?」
鞄から1枚のカラフルなポスターを取り出すと、勇ちゃんが明るく話を切り出した。そのポスターには、見覚えのある猫の絵が書かれている。朝佐野が読んでいた、『猫のプシケ』の主人公の猫だ。
「展覧会?」
そんなことに興味がないという感じで、田浦がぽかんとしている。ぼくはむしろ少し興味があった。仮にもずっと漫画を書き続けているわけだから、展覧会というのにもいってみたかったという気はある。だが、自分がそんなまじめなことをする性分でないことぐらいわかるだろう。漫画家になりたいわけでもないのだから、展覧会に自分から行かないのも当然である。ただ自分の書いている漫画と比較をするためだけのものなのだから、基本的には行かない選択をするほうが多いのだ。
だがこれで、明確に展覧会に行く理由ができた。今こそ自分を奮い立たせるチャンスである。ぼーっと机に向かって漫画を書き続けているだけでは、今のようにぱっとしない日常が流れるだけなのだから、外の世界にも出ないといけない…。などと考えている間に、周りではぼくが展覧会に行くと宣言しなくても、行くほうこうに進んでいるようだった。
「どうする?久富。」
勇ちゃんがぼくににこやかに笑いかけてくる。彼は、ぼくが行くと言うことを、もうわかっているのだろう。
「育代。」
「よし。じゃあ次の日曜だから。忘れるなよ。」
勇ちゃんの笑顔をみたのは久しぶりのような気がした。夏休み、みんなで遊んでいたときは確かに笑顔だったが、鉄がいたせいもあってか、げんきがないように見えた。でもやはり漫画の話となると、勇ちゃんは笑顔を取り戻す。やはり明るい勇ちゃんをみていると安心するのだ。
「そんなに食うから太るんだぞ、おまえ。」
帰り道の道草で、カステラを頬張りながら、勇ちゃんは、マロンクレープを食べているぼくをたしなめる。今日もぼくはこのクレープを食べられて幸せだと思うのであった。
「だって美味しいじゃないか。甘いものを腹いっぱい食べられるなんて幸せなことだよ。」
「漫画を書いてるときよりもか?」
そう聞かれてぼくは少し迷うけれど、勢いよくクレープを飲み込んで、首を横に振る。
「それはないな。」
勇ちゃんはそれを聞くとなぜか驚いた顔をした。
「なんか意外だな。」
「え?」
「そこまできっぱりおまえが言うとは思わなかったぞ。」
自分でも驚いていた。食べることも寝ることも好きなのに、漫画が好きだとここまではっきりと自分が宣言できたことがうれしかったのだ。これはやはり、漫画を書くことが自分の日常になっていて、食べることや寝ることと同じようなものになっていたのかもしれない。これは自分が漫画家になっても悪くないのだろう。
「だって好きだ門。漫画を書くことが。」
「銀梓(シロガネアズサ)も同じようなこと言ってたな。」
突然知らない名前が飛んできたのでクレープをふきだしそうになる。やはり知識がない以上、漫画化にはなれないのかと思い上がった気持ちを抑える。
「だれそえ?」
「知らないのか?この夏話題の漫画家だよ。アメリカ帰りの新進気鋭の漫画家なんだ。」
勇ちゃんの久しぶりに雄弁に語る姿に、こちらも少し驚く。勇ちゃんが流行の漫画化の話をするなんて思わなかった。ぼくは勇ちゃんの好きな漫画がなんなのかも知らないのだ。
「そうか。知らないや。」
「『猫のプシケ』を書いたのもその人だよ。」
今日はよく『猫のプシケ』が登場する。ぼくはこの漫画をあまり読んでいないのだが、そんなに流行っているのだろうか。自分の好きなテイストの漫画ではある。だがその漫画が、アメリカ帰りの新人漫画化の手によるものだとは思わなかった。
「おまえ、あんまり新しい漫画読んでないんだな。」
「まあそうかもな。流行には疎いんだよ。」
「今度の展覧会にもその人が来るから。しゃべってみろよ。なかなかユニークな人なんだぞ。」
ほんとうに漫画家になるなら、そんなふうにいろいろな人とかかわるのも大切なのだろう。やはり勇ちゃんは頼もしい。だから友達でいられるのかもしれない。
でもなぜか、頭の中に変な考えがうかんだ。アメリカ帰りの新進気鋭というのが、どうも鉄に似ているのだ。最近そういうのが話題なのだろうか。でもそんな人なんていくらでもいる。似ていることをいちいち気にしていてもなにも始まらない。無理やり自分に言い聞かせて、そのままときを過ごした。
そのうちに日曜日になった。外に出ると、エマがぼくを困らせていたあの季節の面影がほとんど消えていた。絵になるようなさわやかな秋の空は、書き欠けの漫画を紙飛行機にして飛ばしたくなるような空だった。ぼくは自分のほめるところを見つけるのは下手だが、だからといって自分の生き欠けの人生を紙飛行機みたいにして空へ飛ばすことだけはしたくなかった。たとえこんなにきれいな空だったとしても。理由は簡単だ。だって、自分は漫画を書くことが好きなのだから。満足のいくまで絵を書き続けることができるまでは、ぼくは自分の命を紙飛行機にすることはできない。
そんなことを考えたくなるほど、きれいな青空だった。一人で駅まで歩くのも、いつもよりゆっくり歩いてしまうほどだった。
だから、展覧会の会場の最寄駅に着いたときには、ほかの部員たちはそろっていた。
「遅いぞ、久富。」
佐野が口からガムを吐き出しそうになりながら肩を小突く。
「あんた、来る気なかったんでしょ。」
神林が眠そうな目でぼくをにらむ。
「違うよ。空がきれいすぎて…。」
言いたくなかったが、そんな本当なのに嘘くさい理由を言わざるを得なくなってしまって、ぼくは悲しくなった。
「ハハハハハ。おまえ、空なんかみてここに来たのか。」
田浦が回りの人も耳を塞がんばかりの大声で笑ったので、ぼくも含めてみんな彼をにらんだ。
「まあまだ開園してないし、空をみたくなる気持ちもわかる。」
勇ちゃんのとりなしはいつも秋空みたいに最高である。だからついにやけてしまう。
「なににやけてんだよ。」
佐野がぼくの顔を除きこむ。すると後ろからもう一人、「なにに焼けてるんですか、師匠。」という声が飛んできた。
師匠…。ぼくのことをそうやって呼ぶ人間はいない。ある一人を除いては。
「椿?」
一番最初に反応したのはぼくだった。ほかのみんなは気づいていなかったか、もしくは驚きすぎて反応に困ったのだろう。
「おまえ、なんでここにいるの?」
「決まってるじゃないですか。『Manga Akifess』に来たんですよ。」
Manga Akifessとはまさしく、ぼくたちがこれから行く展覧会のことなのだ。
「おまえもそこに行くのか。」
「あたりまえじゃないですか。あたしは漫画が好きなのですから。」
椿のはっきりとした口調を聞くと、なぜか初夏に戻ったような気分になる。桜堤高校の藤力を一発言葉で殴ったあのときの椿が頭に焼き着いてしまったからだ。でもやっぱり、椿はぼくの見えない遠くに行ってしまったような気分だった。夏が秋に変わるみたいに、椿は鉄の彼女になったのだから。
そういえば、今日は鉄が一緒ではないのだろうか。その疑問を口にしたのは勇ちゃんだった。
「おまえ、彼氏は?」
「ヘ?」
「彼氏だよ。」
勇ちゃんの顔にはさっきまでの笑顔はなかった。
「ああ、保ですか?」
椿の彼氏が鉄であるというのがはっりした。彼は鉄のことをしたの名前で呼んだのだ。二人はもう完ぺきに付き合っているのだ。わかっていたことだが、それを目の前でみると、胸が苦しくなる。それは漫画家としてというよりも、一人の高校生としてである。
「彼は練習試合なので、あたし一人で着ました。それに彼は漫画興味ないと思うし。」
彼女がそう言い終わらないうちに、展覧会の職員が入り口に屯した人たちを列に並ばせた。椿は「ではあたしは後ろにいますので。」と言って姿を消した。漫画部員たちは、さっきまでの少し明るかったムードをすっかり失って、黙って列に並んだ。
だがすぐに、佐野が展覧会のポスターをみて騒ぎだしたことがきっかけで、すぐ元に戻った。ぼくはその雰囲気に飲まれながらも、心の中は秋雨が降りそうなほどだった。
椿はたしかに、今でも漫画を書き続けているからここにきたのだろう。でも、今ぼくの目の前に現れてほしくはなかった。しばらく、椿と鉄のことを忘れるつもりだったのだ。ぼくは自分の書いた漫画に人生を悩まされたくはない。それに、ほかのみんなは椿がくることをいやがっている。それは無理もないことだ。とにかく今は、二人だけの世界に止まっていてほしかった。どうせなら、漫画の世界にとどまっていてほしかった。そのときばかりはそう思った。なにより鉄は、きっとここにきたがっただろう。
そんな気持ちとは裏腹に、たくさんの漫画はぼくを笑顔にさせてくれた。やはり漫画をみると落ち着く。早く自分もこういう作品を書けるようになりたいと、頭の中でぐるぐると絵の構想を考えながら歩いた。
ぼくの好きな漫画がおかれているのを見たときは、さすがに叫びそうになった。それは谷塚宏(ヤヅカヒロシ)という漫画好きしか知らないようなかなり昔の漫画家が書いた『卓(スグル)くん大嫌い』という漫画だった。この話は、なんの特徴もない平凡な卓くんのもとに、彼とそっくりの人間が現れる。ところが彼は超能力を持っていて、ほんとうの彼の友達や家族、世の中の人々を次々と傷つけていく。最終的に、実はそれがほんとうの卓くんの心の中の姿だったことがわかる…と、なんとも文学的な漫画であるが、これこそ、『ぼくのヒーロー』を書こうと思った理由でもあった。自分のあこがれる鉄保を登場させたのはこの漫画のせいでもあったのだ。だがこの漫画の魅力を知っている人はほとんどいない。もっとおもしろいヒーロー物の漫画や、どろどろした少女漫画のほうがきっと人気がある。ぼくだって書くならそういう漫画を書きたい。でも、卓くんはぼくの中で、ぼくをかなり変えてくれた。
もちろん、ほかの漫画部員の中でも、この漫画の前に立ちどまるひとあまりいなかった。だから気が付くと、自分の周りには漫画部員はいなくなっていた。
そう思っていたのだが、突然肩をたたかれた。
「おい、久富。聞こえてるか?」
田浦が膨れ顔になってぼくの横に立っていた。
「ごめん。なんかあった?」
「あそこでお姫さまが呼んでるぞ。」
田浦が指さした先には、ドレスを来た見覚えのある少女が立っていた。どことなく幸に似ているようだが、幸にしては衣装が大人びているようにも見える。
「お姫様…?」
頭の中でその言葉をなんども回していると、そのお姫様はぼくに話し掛けてきた。
「久富さん!あたしだよ。」
その声はまさしく幸であった。ドレスを着ていたからいつもの彼女よりははるかに大人に見えたのだ。ぼくは彼女を認識した瞬間二つの疑問が頭を支配した。一つは、なぜ彼女はドレスを着ているのか。もう一つは、なぜ彼女がここにいるのかということだ。彼女こそ漫画なんてまったく読んだことがないような存在である。少なくとも作者はそういう設定で彼女を描写したはずなのに、これまた新たな事件の始まりなのだろうか。
「さっちゃん、なんでここに?」
ぼくがそういうと、幸は突然にやにやし始めた。幸がこんな不思議な笑い方をするのは初めてみた。漫画でこんな笑い方を書いた記憶もあまりない。そりゃにやにやしている顔は書いたけれど、なんだかその笑い方は、ぼくをからかって、悪くいえば軽蔑してるみたいな笑い方だった。
「そりゃあねえ…。」
幸がそういうかいわないかのうちに、突然また見覚えのある影が走ってきた。
「幸。父さんが来る前に全部み終わるんだぞ。」
「やだよ。ゆっくり見たいもん。兄さんは漫画とか興味ないかもしれないけど、私は兄さんよりは漫画興味あるから。」
「失礼な。おれだって漫画は好きだぞ。」
仁さんまで現れてしまった。なぜこんなにも、鉄兄弟の人々がここに集まっているのだろうか。というより、なぜヒーローの関係者がこんなにもこの展覧会に現れたのだろう。ぼくの頭は彼らと話すことよりも、それを考えることに集中した。
「おー、漫画家少年ではないか。なにをぼーっとしてるんだ。一緒に漫画を見よう。」
「いや…その…。」
戸惑っているぼくを見て、仁さんはじれったそうにぼくの肩をたたいた。
「どうした。漫画家少年は漫画を見るのは好きじゃないのか?」
「なんで仁さんはここにいるんですか?漫画とか好きなんでしたっけ?」
仁さんはぼくの質問を聞くと大きな声で笑い出した。
「まさかお主、知らないのか?」
「え?」
みんななにかをぼくに隠している。しかも、またなにかの事件の火種になりそうなことのような気がする。
「父が漫画家デビューを果たしたのだよ。」
「えーっ!!」
鉄兄弟の父というのは、鉄淳(クロガネアツシ)という証券会社の社員だ。外資系の企業ということもあって、最近までアメリカに配属になっていたというわけだ。要するに、漫画なんてぜんぜん関係ないような人間なのだ。そういう設定のはずだった。つまりこの漫画家デビューの話は、作者にとってまったくの未知の領域なのだ。まさかこの展覧会とは鉄淳のためのものなのだろうか。
「あ、淳さん、漫画を書かれるんですか?」
「昔から書いていたが、日本に帰ってきたときに、漫画の編集者に自分の書いてた漫画を渡したら飛びつかれたらしい。すぐに売ることになったそうだ。」
まったく話が読めない。頭の中でいろいろと情報を整理していると、突然会場に放送が響いた。
「みなさま、午後1時から、漫画家銀梓さんのサイン回およびミニトークショーを開催します。ぜひ振るってご参加ください。」
そういえば、この展覧会に、銀梓も出展していることを思い出した。その漫画家もアメリカから帰ってきたばかりの新進気鋭の漫画家だと勇ちゃんが言っていた。それを思い出した瞬間、背骨に電撃が走った。そしてその電撃は、ぼくの予想だけにとどまらなかった。仁さんが放送を聞くと静かにこう言ったのだ。
「もうそろそろ父が付くころだ。漫画家少年、1時からのトークショーを楽しみにするといい。父にあえるぞ。」
トークショーの内容はあまり覚えていない。自分が描いた鉄淳は、漫画家銀梓として、少し大きめのホールのステージに立っていた。彼は自分と漫画の関連について語っていた。自分にとって漫画がどんなものなのかも話していた。でもぼくは少し、いやかなりショックだった。自分が書いたキャラクターが、違ったふうにステージに立っていたから。
ぼくは彼のサインをもらう気はまったくなかった。ぼくは彼にはあこがれなかった。
彼をかいたのがぼくなのだから。たとえ彼がすばらしい漫画家だとしても。
ぼくは他の漫画部員や鉄家の人たちにばれないように姿を消そうとしたのだが、そうもうまくいかなかった。
「久富さん、行かないで!」
トークショーが終わった瞬間、幸に手を引っ張られた。
「ごめん。ちょっと気持ちの整理をさせてほしい…。」
そういおうとしたけれど、幸はぼくになにも言わせなかった。
「お父さんが、久富さんと話した言って。ホールの上の会にあるカフェで待ってて。」
今彼と話してなにか変わるだろうか。ぼくの心の中では、パソコンの画面を見ながら、コーヒーをすすり、数字の羅列を紙に書き込んでいく彼の姿しかなかった。そんな彼が、かみのうえに絵を書いている姿なんてまったく頭になかった。自分の創造と違う彼と話しをしたら、ぼくの漫画は敢然に敗れてしまうのではないか。敗れてしまった漫画を、テープで補強することはできるのだろうか。
でもぼくは、客のまばらなカフェでコーヒーを注文していた。カフェの店員は、ぼくにメニューを渡すと気に、小さなパンフレットとチラシもわたしてきた。そこには、「Manga Akifess、銀梓特別企画」と書かれていて、横に猫耳をつけた少年の絵が書かれていた。これこそ、「猫のプシケ」の主人公なのだ。間違いなく鉄保の父は、「猫のプシケ」の作者なのだ。
パンフレットには展覧会の内容と、銀梓が書いたと思われる切り抜かれた漫画が大きく掲載されていた。その漫画は、たんぽぽの綿毛の舞う畑で、猫が少女に声をかけていた。


「ななこ。猫が人間に恋をすることは悪いことなの?」
「プシケ?そんなことはないわ。あたしだって猫に恋をすることはあるわよ。」
「どうやってこの気持ちを伝えようか。」
「その人のために、ここにある花を積んであげればいいのよ。」
「それじゃあ、きみにこの花をあげる…。」


「きみはいつから漫画を書き始めたんだ。」
銀梓こと、鉄淳は、白髪まじりの頭をかきながらミルクティーをすすった。時刻は午後3時をすぎたばかりで、相変わらず秋の空は美しい。こんな日は、日向の窓で猫が眠っているのだろう。そんな猫を、この中年の男は絵にしようとしたのだろうか。
「昔から絵をかくのは好きで、小さいころから絵日記をかいているときが1日の中で一番楽しかったんです。だから漫画を書くことにしたんです。自分の日常を切り取るみたいな。そしたらそれがどんどん大きくなって…。」
「そりゃあいいじゃないか。夢があって。」
鉄淳は実に優しそうな顔立ちをしている。その顔は、銀梓である前に、ぼくが絵の中に書いた彼自身だ。でもなぜだか、ぼくは彼の放つ明るい言葉を、そのまま飲み込むことはできなかった。日向の窓で眠る猫のように、太陽を浴びることができないでいた。
「夢があるんじゃないんです。夢しかないんです。ぼくはみんなが持ってるみたいな取り柄もないから、漫画を書くしかないんです。楽しいからじゃないんです。ほかのものから逃げてるだけなんです!あなただってわかってるでしょ!あなたを書いたのはぼくだ!それなのになんで、どうしてそんなに、明るい顔をしてるんですか?」
自分の声が大きくなってしまったことがますます恥ずかしくなって、目から涙が出そうになる。でも、自分の書いた漫画の登場人物の前でなきたくはなかった。
淳さんはそんなぼくの顔を見て、大きな声で笑った。そのすカットした笑い声は、秋というより夏空だった。
「ぼくが明るい顔をしてる理由は二つある。一つは、きみがぼくを美しく書いてくれたから。もう一つは、ぼくが今の人生を楽しんでるからだよ。」
あたりまえすぎる答えに、ぼくは口をつぐむしかない。彼の人生とはいったいなんなのだろう。ぼくが漫画に書いた人生なのだろうか。それとも、こうしてここにいる人生なのだろうか。この二つの人生の違いはなんなのだろう。
「きみはぼくたちの作者である以前に、ぼくの若いころに似ているな。」
この人にもそんなころがあったのか。自分が絵にしていない人生があったのか。絵になっていることだけが人生なのではない。それはわかっていても、作者であるぼくは受け入れることができなかった。
「ぼくは小さいころから友達が少なくてね。顔もかっこよくなかったし、運動は得意じゃなかったし、勉強もぜんぜんできなくてね。テニス部に入って運動した気になっても、全然成績は上がらなかった。なのに背ばっかりお聞くなってな。ただ一つだけ好きなことがあった。それがきみと同じ、絵を書くことだったんだ。」
どこかで聞いたことのあるシナリオだ。彼は嘘をついているのだろうか。ぼくに同情してそんなことを言っているのだろうか。彼はぼくが漫画にしなくとも、精工舎の側の人間であるはずだった。これではまさにごくではないか。彼にそんな人間でいてほしくない。たとえ今同情しているんだとしても、彼の人生はずっと、猫の集う日向であってほしい。
彼の話はまだ続いた。
「高校の頃、授業中こっそり書いていた漫画が教員に見つかって名。ぼくは泣きそうだった。絶対に破られると思ったから。でもその教員は、漫画の没収をしただけで、破らなかった。その日の放課後、ぼくは職員質に呼び出された。そしてその漫画を返却された。漫画の下に大きな字で、漫画の批評文が書いてあったんだ。すごく詳しく名。それで、【満足の行くものが書けたら単位をやる】と書いてあった。」
突然話のベクトルが変わったような気がして頭が付いていかない。彼はなにを言いたいんだろう。
「その教員は国語の教員でな。兄が有名な漫画家だそうだ。谷塚宏って知ってるだろ?」
谷塚宏…。彼の口からその名前が出てくるとは思わなかった。谷塚宏を知っている人がとても少ないからという理由もあるが、漫画の中に生きている彼がなぜリアルな漫画化の彼の名前を知っているのかといういつもの疑問が頭をよぎったのだ。彼が谷塚宏を知っているのなら、彼はよほどの漫画好きということになりはしないか。
「もちろんです。」
「谷塚宏に影響されて、その弟であるぼくの国語科の教員は大の漫画好きになった。だからぼくが漫画を書いていても黙認してくれた。」
青春の思い出を語る彼の顔は、何歳か若返ったみたいな顔だった。その目は少しだけ、いまのぼくに似ていた。でも、ぼくは授業中には漫画は書かない。学校ではくるしみ耐えて勉強しようと決めているからだ。
「結果的にぼくは、高校を卒業する前までに漫画を書いた。それがこれだ…!」
彼は、鞄から、きちんと製本されていない紙のようなものを取り出した。その基盤だ紙は、たしかに彼がかなり昔に書いたと思わせるものだった。その漫画のタイトルは『私のヒロイン』だった。
その漫画は、ぼくが鉄保を書いた漫画と、そして銀梓(鉄淳)が登場する『ぼくのヒーロー』とほとんど同じ設定の漫画だった。主人公は、モデル志望でイギリスに留学経験のある女子高生だ。彼女はスポーツも勉強も音楽も完ぺきだ。もちろん彼氏もいる。そんな理想のヒロインが描かれるわけだ。まるで鉄保のように。
「でもぼくはこの漫画を最後まで書かなかった。なぜだと思う?」
『わたしのヒロイン』を見つめているぼくに、彼は聞いた。ぼくはそれよりも、なぜ彼がこの漫画を書こうとしたのか知りたかったけれど、質問に答えることにした。
「いいアイデアが思いつかなかったから。」
そのこたえを聞いて、彼は小さく、でも悲しげに笑った。
「アイデアなんてそこらじゅうに転がってる。かくのをあきらめないかぎり、心の中はなんでも絵にできるはずだよ。」
わかっていた。アイデアが空っぽになったとしても、彼は漫画を書き続けることなんて、漫画の話を笑顔でしている彼のことを考えればすぐにわかることだ。ぼくは自分がわかっている答えを、心の奥にわざとしまいこんでいた。昔書いた古い漫画を、雑に机の中にしまうように。
「こんな理想のヒロインはこの世に存在しないことは、ずっと前からわかっていた。だがぼくは認めたくなかった。現実を受け入れるために、ぼくは鉛筆をおいた。それで漫画家ら離れるように必至に勉強をして、なんとか証券会社に就職した。それで今のキャリアがある。」
彼は一息でそういうと、漫画のページを閉じた。
「かっこいいことをいったけれど、ぼくは結局きみと同じで、漫画に取りつかれてしまっていたみたいだ。だから、アメリカでも漫画を書き始めた。」
彼はぼくの顔を除きこんだ。突然現れた漫画の登場人物は、ぼくを漫画家ら離そうとしているのだろうか。彼は漫画しか書けないぼくをたぶらかしにきたのだろうか。どちらにしろ、ぼくは今すぐここから抜け出したかった。でも、優しそうな彼の笑顔は、やっぱりぼくが絵に書いた通りだったから、席を立つことができない。ぼくは、自分の書いた漫画の登場人物を傷つけたくなかった。
「きみの書いているまんが、ぼくが書いた漫画によく似ているな。」
「ぼくもそう思います。」
「つまり、ぼくはヒーローの父親ということか…。」
漫画の中で漫画を書いた彼の顔は、鉄保の父親というよりは、銀梓の顔だった。漫画を書く漫画家を主人公にした漫画を書くのも悪くないと、頭の中でまた違うことを考えている自分を1発たたいてやりたくなった。
「梓さん…。」
ぼくは彼の名前を、自分がつくった名前ではなく、今現実に存在するペンネームで呼んだ。梓さんは予想通り笑ってくれた。
「きみにそう呼ばれるとうれしくなるな。きみが書いたぼくの名前は淳だからね。ぼくのことを受け入れてくれたみたいでよかった。で、なんだい?」
ぼくは、その答えをあまり聞きたくはなかったけれど、それを聞かないと、この現実と理想が混ざったような世界を、真の意味で受け入れられないから聞いた。
「ぼくは漫画を書き続けるべき何でしょうか?」
彼はその質問を聞くとさらに大きな声で笑った。その笑い方は、不思議と腹が立たなかった。でも、その笑い声はなんだか悲しげにも聞こえた。
「それはきみだけにしかわからないよ。きみがぼくたちを書き続けたいなら書けばいい。書きたくないならやめればいい。世の中には理想が好きな人もいれば、現実が好きな人もいる。言っただろ?アイデアはどこにでもある。その形は自分にしかわからない。」
彼はミルクティーを飲み干すと、その敗れた漫画をぼくに手渡して、そっと席を立った。そして、カフェを出るときに、その大きな手で、ぼくの小さすぎる手を握った。
「ヒーローをよろしく頼むよ。」
展覧会の会場ロビーには、まだたくさんの人がいた。展覧会の物販コーナーで配っていた数々の漫画(銀梓氏のものも含む)を交換したり、一人で読んだりして時間をつぶしている。だが漫画部員たちはみな帰ってしまったらしく、椅子に坐っている人たちの中に知り合いの顔はなかった。
銀梓氏からじきじきにもらった『わたしのヒロイン』をここで読んでしまおうかとも思って、空いている席を探していると、一人の少女が席から立ち上がった。
「師匠!」
今日2度目の「師匠!」である。ぼくは気づかないふりをして立ち去ろうかとも思った。だがよく考えてみると、今椿と二人で話をすべきかもしれないとも思った。だから彼女が立ち上がった席の近くに歩み寄った。
「やあ。まだ帰ってなかったのか。」
「はい。ちょっと読みたい漫画がたくさんあって。銀さんのサイン海のあと、つい長居してしまいました。師匠はこんな時間まで、どこにいらしたんですか?」
彼氏と一緒じゃないのに、椿は笑顔である。もちろん、彼氏と一緒ではない彼女が、つねに悲しい顔をしているなんてことはないだろうが、一人で漫画を読んだりしているよりも、漫画より楽しい現実世界で、彼氏と出かけたほうがきっといいはずなのだ。それも自分の先入観だろうか。
「カフェでコーヒーを飲んでた。」
梓さんに会った話をしてもよかったのだが、なんだかあの二人での会話は、秘密にしておくべきことのような気がした。それに、椿にその話をするのは、なんとなく自分の中で憚られた。
「へえー。さすが師匠、おしゃれですね。あたしなんて、カフェがあったことも知りませんでしたよ。お昼は近くのラーメン屋さんで済ませちゃいましたし…。」
椿はそう言うと漫画のシナリオでも考えているのか、ボーっと窓のそとを見ていた。話はとぎれてしまった。このあとどんな話をすべきなのか、ぼくにはなんとなく頭の中で流れが見えていた。だから、すごく彼女にとっては意地悪な質問をした。
「おまえは…いいじゃないか。保とそういうところによく行くんだろ?過去へに行くなら二人で行けばいいじゃないか、」
ぼくの皮肉を聞いても、椿は怒らなかった。
「師匠は創造するのがうまいですね。そうなんです。こないだ、あたしがずっと食べたいって言ってたお抹茶のスイーツを、保が語地層してくれたんです。それがほんとにおいしくて。」
椿の笑顔は、のろけていても全然怒りが湧き上がってこない顔をしている。ぼくが彼女を書いたからだろうか。でも、皮肉を言っても笑い続けることだけは、ぼくのしゃくに触った。
「だってそりゃあ、おれがおまえを書いたんだから、創造とかじゃなくて、それは記憶だよ。」
すると椿の笑い方が変わった。にやりとなにかをたくらんだような笑い方だった。
「師匠。それを言っちゃだめですよ。」
そう言うと、自分が読んでいた漫画を開きながら、小声で言った。
「すべてが描いた通りに行かないのが人生ですから。」
椿の小さな声は、まるで秋風が背中を通り過ぎるように、そっとぼくの耳を離れていった。ぼくはそれ以上彼女と一緒にいたくなくて、「じゃあそろそろ帰るよ。」と言って、その場をあとにした。
描いたとおりにならないのが人生だということは、椿に言われる前からわかっていたつもりだった。未来というのは、始まってみるまでわからないものなのだ。しかし、ぼくはそれをきちんとわかっていなかったのかもしれない。自分の書いた漫画のシナリオとは違う方向に、未来はどんどん進んでいる。思えばこの数カ月、『ぼくのヒーロー』のキャラクターたちが現実世界に飛び出してきてから、漫画のシナリオとは違うことが次々と起こってきた。そのたびに、現実世界に生きるぼくたちは彼らに振り回され、漫画が敗れるぐらい忙しい日々を送ってきた。それこそが人生であり、漫画とか夢とか、頭の中に創造していた世界がたどり着けない姿なのだ。そんなあたりまえのことを、ぼくはわかっていなかった。もしくは認めようとしなかった。椿がつぶやいたあの言葉は、ぼくの背中を強くたたいたように思えた。
椿の手に背中をたたかれ、梓さんに握られた手を持つぼくは、これからなにをすべきなのだろうか。漫画を書き続けるかどうかは自分次第だと彼は言った。人生はどうなるかわからないと彼女は言った。ぼくが絵を書かなくても、人生はすぎるし先生は黒板に文字を書き続けるし、鉄と椿は幸せな日々を送る。ぼくがなにもしなくても、まわりはどんどん変わっていく。周りが何かを変えていくなら、自分だってなにかができるはずだ。
夢を描いてそのとおりにならない人生でも、ぼくは一つずつ、色を付け足していくように、漫画では描けない現実を生きていくしかないのかもしれない。日向の窓から離れて、花を摘みに出かけるプシケのように。

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