考えないことが大事だと考えて書いてしまっていることについて

自分の話なんだけど、木星が10ハウスにあることもあってか、仕事というものを考えた時に、何かの専門家になるとか、これを天職と見て一つのことに取り組むということが想像し難い。占星術にしても、興味があって勉強してきたが、専門家になる気もしないし、占い師になりたいとも思わない。ぼくにとっては占いの知識はリベラルアーツの中の一つだ。

大体占い師になるにしても、占いの知識だけではなく、人間心理の扱い方に関する知識が必要。人気でる占い師は、育ってきた過程で人扱いの上手さを意図的でないにしても身につけていた人なのではないか。

ちょっと思うのは、占いの勉強をしたから占い師をします、というのは退屈な面もある。本当にその身につけた知識が役立つのなら、何か違うフィールドで占いを使って成功してみるというのも面白いのではないか。つまりは応用占星術ということか。でも、何かを成功させようと思った時は、占いの知識はむしろ邪魔になるかもしれない。なぜなら既存の知識の枠組みの中で物事を判断しようとしてしまうから。土台あまりにも多くの要素が複雑に絡み合う現実世界において何かをしようと思ったら、直感を信じていくしかない。正しい直感は通常の思考能力を上回っている。という意味では、占いの現場でも自分の知識をクライアントにお披露目するのには益がない。むしろ既存の知識からは得られないような、その時々でしか成り立つように見えないようなものの見方を提示できないと、結局は思考の堂々巡りにクライアントを巻き込むことで終わってしまう。

では占いに意味があるのかというと、あまりないのかもしれない。だからぼくは占いは道楽だと思っている。あれこれ考え、迷うことも一つの遊びであり、暇つぶし。人間は暇なので、何か作ったり、迷ったりして時間を潰している。そのうち本気になってしまって、自分がしていることに本当に意味があると思い込んでしまったりもする。そうすると、その意義を証明するために躍起になって、かえって視野を狭めることになり、偏った見解に自分が染まってしまう。自分が取り組んでいることの無意味さを意識しながら、それでも放り投げずに続けることができれば、型にはまらない想像的な活動ができるのではないかと思う。それは反対にあるものを取り入れて、統合性に向かっていくことである。正と負という反対のものをぶつけると、矛盾が発生して、意識の中に若干の空白が生まれる。その空白をたくさん経験すると、自分の思考の壁を少しずつ壊すことができる。考えることで物事が解決しないのは、問題を発生させた偏った考えを持った自分が、歪んだままの思考で自分の問題について考えることにしかならないから当たり前の話である。考えて問題を解決できる自分であったなら、そもそも問題も発生しない。

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