差異に気づくことと習慣を変えること

グレゴリー・ベイトソンの『精神と自然』を読んでいる。岩波文庫から少し前に出たもの。その本の中で、よく知られている茹でガエルの例えがあった。カエルがを入れた水の温度を少しずつ上げていっても、カエルはそのことに気づくことができず、いつの間にか茹で上がってしまうという例えとしてよく使われる話。実際にはカエルも暑くなってきたら、不愉快さを感じて水から出ると思う。その時水の温度が上昇していたことに気づくかどうかはあまり関係ないのではないか。水の温度の上昇に意識的に気づくかどうかとは別に、無意識的な生態の反応があると思う。でもこれはあくまで例えの話なので、細かくつっこんでも仕様がない。
この話から知るべきことは、感覚から得る差というものは微々たるものであれば気づくことが難しいということ。何かの訓練をして、上達したり変化があってもそのことはなかなか自分ではわからない。そのせいで進歩がないと思い込んでしまったりする。日常的な実感ではなくて、大きなスパンの変化を確認できれば、きっと大きな違いがすぐに確認できる。
例として、付き合う人々のタイプを変えると、以前付き合っていた人々の考え方や行動パターンの偏りに気がつくようになる。それまではその集団の価値観に染まっていて、自分にこびり付いた色合いを自覚しない。他者からくる影響だけではなくて、習慣的な思考や行動からの影響はおそらくもっと濃厚で気がつくのが難しい。
習慣の持つ偉大な力が強調されることが多い。その考えを逆転させると、習慣を切り替える力もまた偉大であると言える。習慣には慣性があるので、努力しているという感覚も目減りしていくだろう。とても勤勉は人にとっては、怠けることを習慣にすることがむしろ難しいことになる。そこには恐れの感情もきっとある。ヨーロッパ人の風習としてあるバカンスの時、仕事を放り出してしっかり休んでいるのだとしたら、勤勉であることは彼らの習慣にはなっていないのかもしれない。日々の行動を会社に管理されているだけで、心身の深いところにまで習慣は染み込んでいなくて外的な環境に動かされている側面が強いということになる。
タロット占いを継続的にしていると、同じカードが違う相手や場面で出てくる状況に何度も遭遇することになる。カードは同じだが、そこから読み取るべき意味には差異がある。その差を読み取ることができなければ、機械的な単調な読みになってしまう。相手も違うし、質問内容も違うし、カードを読む自分の知識やコンディションも常に変化している。カードから何を読み取るのかは、そうした全体的なシチュエーションの違いの結果であって、ある意味で過去の経験や知識に頼ることができない面もあり、占いが当たるということを保障できる人は誰もいない。ただ直感的にこうなるだろうという感触があるだけで、その感触の力強さを信頼するしかない。その実感が弱い時には、当たるも八卦当たらぬも八卦の世界になる。

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