ドゥルーズ/ガタリのアンチ・オイディプスの第1章 第4節のカントとニーチェ
ドゥルーズ/ガタリの「アンチ・オイディプス」は毎回読んでも全く新しく読書している感じになる、ある一文すら理解できず、まとまったパラグラフとしても理解できないため、まるで頭にのこらない。それゆえに、毎回1ページ目からフレッシュに読める素晴らしい本である。
それもカントを齧ったおかげで終わりを迎えるかもしれない。カントの本はこのような本の中では読んでいることが前提で書き込まれている。一方、さまざまな引用は読者は知らないだろうが著者はこんなことを知っているというように書いてあるので本筋に影響しない。
ハードカバー1986年初版 1988年 6版 p39にプラトンにはじまる欲望についての議論についてカントが出てくる。
というわけで、カントが、神の存在、自由、魂の不滅を主題にして、自由はともかく、延々と本を書いているのをどれだけ真に受けるべきか、知るべきことのできないことを考える方法論としても不十分な展開にしか見えない、というかみんなそんな内容の本をなんでありがたがるのかと思っていたので、大きく安堵した。いい日である。これもそれもカントを齧ったおかげではある。
キリスト教の神の存在証明は今日的には無理である。キリスト教者にしか通じないことであるから世界人口三分の一の人には関係ない。ドイツはじめ世界に覇権を広げるヨーロッパ白人にとって宗教はキリスト教一色で染める気満々だったという政治的な野望を読み取るだけである。
魂の不滅もキリスト教から派生した科学が打ち壊してしまった。私のような仏教徒だってあの世、生まれ変わりを信じたいのに壊れてしまった。
ただし世の中では火葬場から帰ってくる時に霊がついてくるからと言って別の道を通ったり、塩をお葬式につけたりするので、古来の日本式の霊は仏教で置き換わっていないし、混然としている部分もあるので、カントの時代とそう変わってないのだろうと思う。今後も変わらないだろう。古来の土着信仰を迷信というのも変な言い方の気がする。
次はニーチェ
ドゥルーズ/ガタリのこのような進め方はニーチェの「悦ばしき知識」に一つの類型が現れているのかもしれない。信太正三訳 ちくま学芸文庫 ニーチェ全集8巻
まずニーチェのカント評、私はカントを「神」「自由」「魂の不滅」についての結論はしょぼい、議論を始めた時と途中も結論も何も発展がない、最初からわかっていたことを長々書いただけ、と以前書いてちょっと罪悪感を感じていたが、それは真っ当なことであることがわかって安心した。これからはニーチェを引用すれば良い。 ポール・ディラックが発見した相対論的波動方程式ではもともとなかったスピンが出てきたり、反物質解が出てきたりしたので理系から見ると議論を進めることで今までできなかったことができるとか、何かそういうことを期待するのだ。カントでもそういうことあるのだろうか?否定はできない、今でも皆に読まれてインスピレーションを与え、新たな解釈が続けられているのだから。私にはまだ見えていないだけなんだろう。
次に、このニーチェの人間像はサルトルの実存主義や晩年のフーコーのゲイの生き方を模索する生き方をカモフラージュしたボードレールのようなダンディな自己を創造する生き方=生存の美学へと繋がっていく。ドルーズ/ガタリの全体への関わり方はまだ見えていないのでいずれ。資本主義下の精神分析、オイディプスの三角形の中で総論はどうなるのか楽しみではある。
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