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中世キリスト教修道生活の核心その1 序論 1ー禁欲・自己放棄・沈黙ー ChatGPTでアベラールとエロイーズ


はじめに

 先日お伝えしたアベラールのSic et Nonの継続の前にアベラールが修道活動に対しどのような考え方をしていたか「アベラールとエロイーズ」(岩波文庫 畑中尚志訳)の第8書簡を中心に確認しておこう。
 アベラールは12世紀に活躍していた。アベラールとエロイーズを読むと、アリストテレス、セネカ、オリゲネス、ヒエロニムス、砂漠の師父たち、アウグスティヌスの引用が沢山出てくる。この本を知ったのは25年以上前のことであったが、前半のアベラールの学識や論敵とのいざこざ、エロイーズの過激なエロティックとも言えるもの云いにはすぐに魅せられた。ところが修道院の運営を話題にしている第6書簡以降、書いてあることはわかるのであるが咀嚼が出来ない状態であった。ロマネスク美術を調べたりジョルジュ・デュビーやジャック・ル・ゴフなどの中世の本を読んでいたりしたにも関わらず。
 数年前のことだが、フーコーの「性の歴史」の「第4巻 肉の告白」の翻訳が出版された。性は今ではセクシャリティという性の制度とも言うべき広い範囲の概念で、生権力と言う概念を1巻で提出したことが記念碑的な本である。  
 この4巻を2年前に読んで、引用先はアベラールとかぶっていることに気がついた。フーコーの「肉の告白」は4世紀頃に固まってきたキリスト教の霊性とその実践を系譜的に読み解いた労作である。アベラールとの共通の引用先を検討・活用すれば、アベラールは12世紀にどのようにキリスト教の霊性を受け取ったかを垣間見るのではないか、と考えた。逆にいうと「性の歴史シリーズ」をアベラールの読解格子にするということである。なお、フーコーのアベラールへの言及はない。
 アベラールとフーコーに共通するのは修道院の戒律や規則についてよく言及することである。そこで、それらが修道院長として実際の運営をしていたアベラールの修道生活にどのように現れているのかもあわせて見ていこう。
 今回はまだ序論で、10回くらいの連載を予定している。 

アベラールの掲げる修道の3つの核心

 アベラールは第8書簡において下記のように修道生活の核心を評定している。「修道生活の核心は、私の考えによれば、三つの点に存ずるからである。それは貞節(禁欲)、無所有(清貧)、沈黙である。そしてこれは福音書の中の主人の教でいえば、腰に帯し(ルカ伝12の35)、一切の所有を退け(ルカ伝14の33)、無益な言葉を避ける(マタイ伝12の36)」(岩波文庫 畑中尚志訳 p240)この箇所が読めるのは畑中先生の訳だけである。
 早速そこのラテン語や聖書のギリシア語を検討しよう。ChatGPTによる翻訳。()内は筆者の意見

Tripartitum instructionis vestra tractatum fieri decrevimus, in describenda atque munienda religione vestra, et divini obsequii celebratione disponenda, in quibus religionis monastica summam arbitror consistere: 私たちは、あなた方の宗教(信仰)を説明し、強化し、神に仕える方法を整えるために三部構成の指導書を作成することを決定しました。修道院の宗教(信仰)の本質が含まれていると考えています:It videlicet continenter et sine proprietate vivatur, ac silentio maxime studeatur. Quod quidem, juxta dominicam Evangelica regnle discipliuam, lumbos precingere, omnibus renuntiare, otiosum verbum cavere. すなわち、節制的に生き、所有物を持たず、黙想に最も熱心である。確かに、主の福音の規律に従い、腰を締め、すべてを捨て、空虚な言葉を避けるべきです。

https://fr.wikisource.org/wiki/Page:Abelard_Heloise_Cousin_-_Lettres_II.djvu/3

アベラールの整理の方法として、初めに生き方を述べ、その後福音書の概念に落とし込む。福音書の引用はいかなる背景を持つか、調べてみよう。

アベラールの引用先

 まず聖書の新共同訳から確認しておこう。今回はラテン語の表現も見たいのでいつものサイトからギリシア語とラテン語を転記させていただく。日本語訳はギリシア語からChatGPTによって生成。
・ルカ伝12の35:腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。・・・人の子は、思いがけないときに来るのですから。
・ルカ伝14の33:そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の全財産全部を捨てないでは、私の弟子になることはできません。
・マタイ12の36:私はあなたがたに、こういいましょう。人はその口にするあらゆる無駄な言葉について、裁きの日には言い開きをしなければいけません。
これだけだとよくわからないのである程度の前後を読んでみる。

ルカ伝12の35-37 節制・禁欲=腰に帯

ルカ伝12の35-37 腰に帯 continenter=lumbos precingere
35 Ἔστωσαν ὑμῶν αἱ ὀσφύες περιεζωσμέναι καὶ οἱ λύχνοι καιόμενοι:
36 καὶ ὑμεῖς ὅμοιοι ἀνθρώποις προσδεχομένοις τὸν κύριον ἑαυτῶν, πότε ἀναλύσῃ ἐκ τῶν γάμων, ἵνα ἐλθόντος καὶ κρούσαντος εὐθέως ἀνοίξωσιν αὐτῷ.
37 μακάριοι οἱ δοῦλοι ἐκεῖνοι, οὓς ἐλθὼν ὁ κύριος εὑρήσει γρηγοροῦντας: ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι περιζώσεται καὶ ἀνακλινεῖ αὐτοὺς καὶ παρελθὼν διακονήσει αὐτοῖς.
35 Sint lumbi vestri præcincti, et lucernæ ardentes in manibus vestris,
36 et vos similes hominibus exspectantibus dominum suum quando revertatur a nuptiis: ut, cum venerit et pulsaverit, confestim aperiant ei.
37 Beati servi illi quos, cum venerit dominus, invenerit vigilantes: amen dico vobis, quod præcinget se, et faciet illos discumbere, et transiens ministrabit illis.
35  あなたがたの腰(ὀσφύες)帯(περιεζωσμέναι)でまとめ、あかりは点けていなさい。
36 そして、あなたがたは主人が帰ってきて、結婚の祭りの帰りに戻ってきた時のように、主を待っている人々のようにしなさい。主が来て、ドアをたたいたとき、すぐにあけて主に開けなさい。
37 それらの僕たちは、主が来たときに目をさまして待っている者です。主が来れば、彼らに幸福が訪れることを確かに言います。主は彼らに帯を巻いて食事を出し、自らに仕えるために訪れるでしょう。」

https://www.newadvent.org/bible/luk012.htm

この箇所がなぜ禁欲と結びつくのかここだけではよくわからない。後日ふれます。以前から感じていますが、アベラールはじめキリスト教関連の引用は、引用したからと言って引用元の世界までは引用していないように感じます。

後半に続く:

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フランス ブルゴーニュ地方 ヴェズレーのロマネスク様式のサンマドレーヌ寺院<https://quartetgrape.wordpress.com/hypomnemata_of_romanesque/vezelay/>のタンパンのキリストの向かって右側 伝道を命ぜられる使徒
タンパン全体の写真は

フランス ブルゴーニュ地方 ヴェズレーのサンマドレーヌ寺院のタンパン

執筆後記

新約聖書の原典はギリシア語。いつか生写本を見たいのと異文について研究した本を読んでみたい。他に見たい写本について、もちろん翻刻版でよいのですが、司牧論は見つかっています。しかし、贖罪規定書が見つかってません、罪を犯した信者に具体的な罰を与えるものです。当時は教会は告白によって警察・裁判所の代わりをしていたのでしょうか。これこそ各地バージョンがあるでしょうから阿部謹也先生から研究が広がっていると良いのですが。ようやくアベラールとエロイーズについて一つ目を脱稿、続きは数日に一回ポスト予定です。

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