福沢諭吉は妾が許される時代に妻一人、妾なしを貫き、しかも妾を許す多妻法を潰そうとしていたらしい

岩波の福翁自伝、女大学評論、新女大学ほかを読み福沢諭吉の自己との関係、自己鍛錬、自己統御、セクシャリティ(性的指向性という狭い意味でなく広い意味で)について調査をしようと思い、自伝から読み始めた。
 どこを読んでも面白い、抱腹絶倒であるが、品行家風(pp338)を読み始め、目的物を発見!
1若い時から婦人に対して無礼はしない。
2奥平はんの家老から呼び出され、評判の良くない某家に出入りしない方が良いと咎められて、「艶男」と言われたことははじめて。ぜひ言いふらして、と言い返す。pp343
3諭吉は下級武士であるが妻は上流武士から娶った。諭吉28歳、妻17歳。妻に9人の子供を産ませた。pp346
4子供の教育法は体育が大事。先にすべき。pp351
5 私の内が夫婦親子仲睦まじくて諭吉の行状が正しいからといって、「特に誉めるほどのことでもない」「品行方正の君子は幾らでもある」
6奥平家の元老に呼ばれ、奥平家の大奥の女隠居である芳蓮院様に「西洋」では一夫一妻が当たり前です。と進言。その話をもっと聞きたいと諭吉は呼ばれるようになったpp356
7一夫一妻は「随分勢力」があり、多妻の弊害を除いて文明風とすることは「野暮」という意見があるが、「負け惜しみの苦しい逃げ口上」だ。pp357
8上流の婦人はことごとくこちらの見方。同ページ
9多妻法を「取り締」めてやりたい。

ということで痛悔であるが、セクハラは本人の自覚いかんではないので1は怪しい。また9人も子供を産ませるのは今日では家庭内DVでセックスを強要したという見方もあり得る。多妻法というのがあってびっくり実際明治31年ごろに廃案になったらしい。これは妾を2親等における法律らしい。

 これとは別にところどころで儒教をディスりまくり。身分制度を破壊するのが好きないわゆる左翼のおじさんと考えられる。私も同感である。考えてみれば学問のすすめはそのものではないか。もちろん諭吉は若い頃より漢学を勉強した。父親が儒学者で早くに亡くなったが。どこでそのような考えを仕入れた?
 そんなこんなで論語大好きで妻妾を家に囲うのを当然とした新紙幣の誰かさんより諭吉さんに俄然興味が湧いた。その誰かさんは今の漫画でいうエリートサラリーマンが愛人作って妻に嫌われて離婚というテーマのスタートになる考え方の人である。

以上は本の紹介である。疑問はわく
1諭吉のいったことは本当か?妻妾はないといいながら隠し妻はいなかったか
2なぜ諭吉は妾を持つということを嫌ったか。西洋の勉強してから嫌ったのか、その前から嫌っていたのか?
3そのような態度は当時の男性にどれくらいいたのか?曰くいくらでもいる
4だとしたらなぜ当時は妻の他に妾がいたり遊郭で疑似恋愛することが「普通」ということが言われてしまうのか?
5キリシタンについて報告したさい、やはり妻の他に妾を持つことは信者に禁じられた。その時の反応と対比させたい。
6諭吉の妻の発言は残されていないか。子供らの証言など。

なお、フーコーによれば妾を持たないのはキリスト教の発明ではなく、ストア派哲学のムソニウスのルフスが確立した概念のようである。妻に尊敬されるには夫は自己を統御して女に走っていないことを妻に確信してもらう必要があったそうだ。そうでないと妻の方が家庭内で地位が高いということになる、ということらしい。詳しくは性の歴史3巻。

フーコーの説と合わせて諭吉さんの貝原氏を批判した女大学評論などを読み「諭吉と自己への配慮」をまとめていければと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?