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オデュッセイアで締める信仰告白 ChatGPTでアベラール

アベラールとエロイーズの第12書簡はアベラールの信仰告白である。日本で言ったら辞世の句と言えないこともない。現世での最後に残す言葉なのだから。最後の部分だけ話題にしよう。なんとギリシア神話のオデュッセイアが引用されている。ラテン語写本のスキャンとOCRデータは下記にある:

全体のパラグラフは参考として下記に掲げる。このラテン語からChatGPTで日本語に翻訳し、最後のパラグラフだけ固有名詞を合わせて掲げます。ただしOCRデータとスキャンデータの凸号はしてないのですいません。また、きちんとした訳は岩波の畠中先生の翻訳を是非ご覧ください。

De carnis autem resurrectione quid opus est dicere, quam frustra glorior me christianum, si non credidero resurrecturum? Hac itaque est fides in qua sedeo, ex qua spei contraho firmitatem.
しかし、肉体の復活については何を言う必要があるでしょうか。なぜなら、もし私が復活を信じないなら、私がキリスト教徒であることを誇っても無駄でしょう。したがって、私が信仰しているのは、私が座っている信仰であり、それから希望を引き出す強さです。

復活とキリスト教への確信、希望を述べ、妥当な内容です。これは偶然かもしれないですが、次の問題のパラグラフに入る前に、itaque 「したがって、それゆえに、」が使われています。オデュッセイアの舞台のイタケーにも見えあえてこの語を使って誘導的に見える。主人公のオデュッセウスはイタケーの王。

In lac locatus salubriter, latratns Scylla non timeo, vertiginem Charybdis rideo, mortiferos Sirenarum modulos non horresco. Si irruat turbo, non quatior. Siventi perflent, non noveor. Fundatus enim sum supra lirmam petram.

健康に満たされた牧草地に置かれていても、吠えるスキュラを恐れず、カリュプディスのめまいを笑い、致命的なセイレーンの調子にも恐れを抱きません。もし嵐が押し寄せても、私は動揺しません。波風が立っても、私は変わりません。なぜなら、私は堅固なの上に建てられているからです。

ここから一転、キリスト教の話が続いていたのに、急にギリシアの異教のホメロースのオデュッセイアに切り替わる。

オデュッセイアについては下記が詳しい。

スキュラは「3列に並んだ歯を持つ6つの頭と12本の足が生えた姿」の犬
カリュプソは海の残忍な女神
セイレーンは美しい歌を歌う人を食う鳥(魔女)  フォシヨンが「ロマネスク彫刻」の中でヘレニズムとして解説している。

キリスト教の世界から古代ギリシアの神話の世界に放り出された気がします。下記疑問が浮かびます。

1 なぜ旧約聖書の怪物なり敵でないのか?予型論でまとめてくれるとか。
そして、ルネッサンスの時に流行ったみたいに新プラトン主義の解釈でもあるのか?

→これについてはギリシア的世界に脅されてもキリスト教世界を信じる私はもはや怖くない、ギリシア的世界を征服した、ということと考えられないか。宗教的には、アリストテレス的理性に信仰は勝った、いうことを表している、そして彼の人生を振り返れば、これはベルナールに政治的な駆け引きで敗れたため強制された表明ではないだろうか。下記信仰告白の最初のパラグラフに「神学者としてアリストテレスの考えに囚われることも避けたい」とある。
 しかし、それでもなお、これらの敵から逃げ切った神話オデュッセイアの世界の英雄オデュッセウスに自らをなぞらえているようにも感じそれが異教的なのである。
 こう考えると旧約聖書の敵を倒すことを引用するとキリストの後継者めいた言い方になるのが不遜と受け止められるから避けたのかもしれず、2と合わせて調査が必要ですね。

2023.11.19 追記 フーコー「主体の解釈学」pp291によれば、自己への立ち返りと自己への回帰の比喩は、航海であるとのこと。「自己へ向かう航路は、つねにどこかオデュッセウス的」その根拠は注pp310にプラトンによる ポリティコス297E-299Cなどにあるらしい。まだその文献には当たってません。
 そのような比喩があればアベラールは自己への回帰としてオッデュセイアを引用しても正統的なのかもしれません。アリストテレスの理性から自己のキリスト教の信仰への回帰ですね。

2  オデュッセイアはラテン語に翻訳されていたのか?
当時は12世紀ルネッサンスと言われています。このようなギリシアを意識したものが流行りなら他の神学者、哲学者の信仰告白も調査してみたいところですね。アベラールはギリシア語も読めたようなので直接読んでいたのかな。
 その写本があるならオデュッセイアにミニアチュールも見てみたい。それがもとになった彫刻作品とかあると面白いな。

3  そしてこれを読むと今の時代ならば、ジェイムズ・ジョイスのユリシーズも重なってきませんか?ジョイスのユリシーズにも宗教問答を模した章があったはずですよ。また、ナウシカもオデュッセイアに出てくる王女です。
恐るべしギリシア文化の広がり。

最後に、下に参考として告白の全体を掲げる。使徒ペテロの意を持つ岩が3回出てくる。黒字マークしたので確認ください。もちろん自分の名前ピーター(ペトルス)にちなんでいるからでもあると考えられる。

ひとまず以上で。



執筆後記
信仰告白にアリストテレスがでてくる。アリストテレスはサボって読んでない。というか、読み進められない。トマス・アクィナスでもアリストテレスはよく出てくるので避けられない。。。

【参考】
MAGISTRI PETRI ABELARDI

EPISTOLA ET FIDEI CONFESSIO AD HELOISSAY Soror mea Heloissa, quondam mihi in saculo cara, nunc in Christo caris sima, odiosum me mundo reddidit logica. Aiunt enim perversi pervertentes, quorum sapientia est in perditione, me in logiea prestantissimum esse,sed in Paulo non mediocriter claudicare. Quumque ingeni predicent aciem, christiana fidei subtrahunt puritatem. Quia, ut mihi videtur, opinione potius traducuntur ad judicium, quam experientiz magistratu.

Nolo sic esse pilosopbus, ut reealcitrem Paulo; non sic esse Aristoteles, ut secludar a Christo. Non enim aliud nomen est sub colo, in quo oporteat me salvum fieri. Adoro Christum in dextera Patris regnantem.

マイスター・ピーター・アベラールからエロイーズへの手紙と信仰告白

かつて私にとってこの世で愛おしい存在だった姉妹のエロイーズへ、今ではキリストにとって最も愛しい存在となったあなたへ。論理学が世に忌み嫌われてしまったことを報告します。悪徳な人々は、それを曲解し、彼らの知恵は破滅に向かっていますが、私は論理学において優れているとされる一方、聖書解釈においては中庸であると批判されています。彼らは私の知識を軽視し、キリスト教の信仰を不純にしていると主張します。私にとっては、彼らは単なる理論的な意見であり、実際の経験や実践には及びません。

私は哲学者として、パウロに反抗するような姿勢をとりたくありませんし、神学者としてアリストテレスの考えに囚われることも避けたいと考えます。天下において私が救われるべき名前は他にありません。私は父なる神の右手に座すキリストを崇拝します。

Amplector eum ulnis fidei iu carne virginali de Paracleto sumpta gloriosa divinitus operantem. Et ut trepida sollicitudo, cunctaque ambages a corde tui pectoris explodantur, boc de me teneto, quod super illam petram fundavi conscientiam meam, super quam Christus dificavit Ecclesiam suam. Cuius petra titulum tibi breviter assignabo. Credo in Patrem, et Filium, et Spiritum sanctum; unum naturaliter et verum Deum : qui sic in personis approbat Trinitatem, ut semper in substantia custodiat unitatem. Credo Filium per omnia Patri esse corqualem, scilicet aternitate, potestate, voluntate et opere. Nec audio Arium, qui perverso ingenio aclus, imo damoniaco seductus spiritu, gradus facit in Triuitate, Patrem majorem, Filium dogmatizans minorem, oblitus legalis precepti : • Non ascendes, inquit lex, per gradus ad meur altare. »

信仰の腕で彼を抱きしめ、栄光ある神聖な神性を持つ聖霊から生まれた処女の身体で働くキリストを礼賛します。そして、不安な心配事や曖昧さは、あなたの胸に取って、私が私の良心を築いたそのに注がれ、キリストが彼の教会を築いたです。その岩の名前を簡潔に説明します。私は父、子、聖霊を信じます。自然で真の神であり、三位一体を人格的に確立し、常に実体的な一体性を保つ。私は父と子がすべての点で同じであると信じています、つまり永遠性、力、意志、行為の点で。私はアリウスの主張を聞いていません。彼は邪悪な考えに導かれ、悪魔のような霊に惑わされ、三位一体の内で父を上位とし、子を下位とし、律法の戒めを忘れています。律法は言います:「私の祭壇に階段を作ってはならない」と。

Ad altare quippe Dei per gradus ascendit, qui prius & posterius in Trinitate pont. Spiritum etiam sanctum Patri et Filio con substantialem et cocqualem per omnia testor, utpote quem bonitatis nomine designari volumina mea sape declarant. Damno Sabellium, qui eamdem personam asserens Patris et Filii, Patrem passum autumarit; unde et Potripassiani dicti sunt. Credo etiam Filium Dei factum esse Filium bominis uuamque personam ex duabus et in naturis duabus consistere. Qui post completam suscepta humauitatis dispensationem passus est, et mortuus est. et resurrexit, et ascendit in colum, venturusque est judicare vivos et mertuos. Assero etiam in baptismo universa remitti delicta; gratiaque nos egere, qua et incipiamus bonum, et perficiamus, lapsosque per peniter tiam reformari.

確かに神の祭壇に向かって上る階段は、三位一体で前後に存在する。聖霊をまた、父と子と同一実質で、共に賛美することを、私は常に証言します。私の書物はしばしばその善の名に帰すことを望んでいます。私はサベリウスを否定し、父と子が同じ位であり、父が苦しんだと主張したことを拒絶します。したがって、彼らはポトリパッシアニと呼ばれました。また、神の子が人間の子となり、二つの性質から成り立つと信じます。受け入れられた人間性の役割を果たした後、彼は苦しんで死に、復活し、天に昇り、生者と死者を裁くために再び来るでしょう。また、私は洗礼においてすべての罪が許されると主張し、私たちが恵みに必要であること、それを通じて善を始め、完了し、悔い改めを通じて回復することを断言します。

De carnis autem resurrectione quid opus est dicere, quam frustra glorior me christianum, si non credidero resurrecturum? Hac itaque est fides in qua sedeo, ex qua spei contraho firmitatem. In lac locatus salubriter, latratns Scylla non timeo, vertiginem Charybdis rideo, mortiferos Sirenarum modulos non horresco. Si irruat turbo, non quatior. Siventi perflent, non noveor. Fundatus enim sum supra lirmam petram.

しかし、肉体の復活については何を言う必要があるでしょうか。なぜなら、もし私が復活を信じないなら、私がキリスト教徒であることを誇っても無駄でしょう。したがって、私が信仰しているのは、私が座っている信仰であり、それから希望を引き出す強さです。健康に満たされた牧草地に置かれていても、吠えるスキュラを恐れず、シャリブディスのめまいを笑い、致命的なセイレーンの調子にも恐れを抱きません。もし嵐が押し寄せても、私は動揺しません。波風が立っても、私は変わりません。なぜなら、私は堅固なの上に建てられているからです。

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