中世キリスト教修道生活の核心その6 すべてを捨てる・自己放棄2/3(修道院会則・戒律) ChatGPTでアベラールとエロイーズ
前回の続きである
戒律における無所有・清貧
無所有・清貧についてルカ伝14の33の系譜を辿る:
戒律そのものについては以前まとめておきましたので下記を参照ください
ディダケー(12使徒の教え)
(1世紀後半から2世紀前半 シリアで成立、中世思想原典集成1巻)によると、第13章に「金銭や衣服、すべての財産の初物を、あなたがよいと思う仕方でとって、掟に従って捧げなさい。」とある。
ポンティコス
では第97章に「ある兄弟は、福音書のほか何も所有していなかった。彼はこれをも売って、その代金を飢えていた人々の糧として与えた。そして次のような、記憶するに値する言葉を語った。「私は実に、〈持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい〉〔マタ一九:二一〕と自分に語っていた言葉自体を売り払ってしまった」。」
アウグスティヌス
の修道院規則によると物資的なものについての自己放棄は共有という概念になる:第1章に「何ものをも自分のものであると主張してはならず、むしろ、共有のものとしなければならない」とある。衣服が差し入れされた時も修道院長(長上)にさし出して再配分される(第5章3)。その根拠として「聖書に「愛は自分のことを求めない」〔一コリー三:五〕とあるが、これは、自分のことよりも共同の善」を追求すべきとのことである(pp1101)。このように、なぜか衣服についてこと細かに規定されている(序章、4章、5章)。
上長への服従については、「⑥ 修道院長に対しては、尊敬を捧げて、神の次に忠実に従いなさい。副修道院長に対しては、聖人たちに対するように接しなさい。」と序にある。
もし守らなければ
と序に明記してある。
具体的な仕事として
と出ている。
叱責の度合いはどのくらいが相応しいのだろうか?かなり緩い。上長へのフォローとして
と厳しい叱責を庇う姿勢を見せている。
ベネディクトゥス
(5巻)の戒律では4章に目次として「「キリストに従うために、己れを捨てること」〔マタ16:24、ルカ9:23)」と出てくるが、詳しくは58章に
と出ている。
貧しい人たちに寄付するか修道院に寄付するか、修道会の繁栄を見れば、修道院がどうさせていたか分かり切っている。
服従については、まず修道院長側:3章に「修道院長は霊魂の統治を引き受けた」とある。その方向性は「委託された群れについて、牧者の監査がいつの日かあることに恐れを抱き、他人についての決算に心を配ることで、自分自身提出すべき収支についても注意」
興味深いことに完全に専制政治ではなく共和政である:「修道院にとって重要な問題」が起きた時は、「全員を招集して、その議題を説明」し「兄弟たちの意見を聴取したうえで、自ら熟考し、最も適切と判断したことを行うべき」
さらに興味深いのは、全員であるのは「主はより若い者により善い道を示すことがしばしばある」。そこで「兄弟たちは謙遜と従順の心をもって意見を述べ」ることができるが、「決定は修道院長の判断」で決めることができる。ただし、重大でなければ全員である必要もなく長老と決めて良いので何が今問題になっており、それが重要で重要でないか全員にはわからないので、そちら側で統治することも可能である。
統治の根拠にされているのは「審判の日を恐れること。地獄を恐れること。」(4章)ではないだろうか。
興味深いことに同じ章に告白が出てくる。
告白すること: 「心に悪い思いが起こるや、ただちにそれをキリストに向けて投げ砕き、これを霊父に知らせること。」(4章)常に修道士の心の様子は伝えられ、把握される。これは修道院長の統治には有利だろう
服従の仕方: 「我意を憎むこと。「彼らの言うことは、これを行い、彼らの行っていることを行うのを望まないこと」「マタ(23:3)という主の教えを思い浮かべ、修道院長の命令には、万一あってはいけないことだが修道院長自らこれに反することがあっても、すべてについて従うこと。」この万一あってはいけない修道院長が悪いことをしているということ、というのは先日のアベラールにも出てきた:"Qui si etiam, quod absit, male vivat, quum bene præcipiat"。組織内に不正があっても自浄されない組織の典型的な例で今日の基準では受け入れられないだろう。
服従の考え方:「長上に対して示された従順は、神に捧げられたものであるから、神御自身「あなたがたの言葉に耳を傾ける者は、私の言葉を聞く」「ルカ10:16〕と言われている。」
神による観察と天使による報告:「たえず天から神によって観察されており、その行為はどこにあっても神の目を逃れることはなく、天使たちはたえずこれを神に報告していると考えなければならない。」(7章)これを守らなければ救済されずに地獄に行くと。会則ではさらに細かく述べられていく。
具体的な自己放棄の例:作業場でのことであるが,「ただちに個人的な関心や自分の意志を放棄し、何ごとであれ手にしているものは離し、従事している作業は未完成のままにして、足早に服従し、命令する者の声に行為をもって従う。」(4章pp259)つべこべ口答えせずすぐ行動にうつれと。
また謙遜・服従について第7章で4つの段階で詳しく描かれている。
ここにもアベラールの引用するルカ伝14の33は出てこない。
まとめ
このように、救済のために自己を放棄、すべてを捨てる、ということは、所有の共有、服従すること、そのためには告白することなど時代が進むにつれ細則がだんだんと項目が増えてくる。
特にベネディクト会則はアベラールの述べた自己の放棄、意志を捨てること、ともよく噛み合っていると考えられる。抑圧的にも感じるが実際の統治はどうだったのだろうか?
執筆後記
すべてを捨てる・自己放棄についてその2を送ります。次回はフーコーによる解読。
アベラールとエロイーズの修道院の運営の下支えとなる会則。アベラールは修道院長としてずいぶん苦労したようです。修道士たちは山賊のような奴ら、と第1章にあったような。
修道院の規則については思うところあるので別紙にまとめます。
トップ画像はフランス、プロヴァンス地方のサン=ジール=デュ=ガールのファサードの使徒像です。30数年前の私の撮影かな。