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井上陽水と宮沢賢治(4) 『夜のバス』と『青森挽歌』

『夜のバス』と『青森挽歌』

井上陽水の歌『御免』の感想を述べた。
もう一曲感想を述べたい。それは『夜のバス』だ。この歌は1972年発売の『陽水 II センチメンタル』に収められている。宮沢賢治との関連は定かではないが、少し気になるところがあるので紹介しておこう。それは三番の歌詞に出てくる。

ハアー 夜のバスが 僕をのせて走る
ハアー 広い窓も ただの黒い壁だ
なにもかもが 闇の中に
ただ 夜のバスだけが 夢のように走る

この歌を聴くと、私はふと賢治の詩『青森挽歌』を思い出してしまう。

こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
 (『【新】校本 宮澤賢治全集』第二巻、156頁、筑摩書房)

バスでも汽車でも昼間であれば、窓の向こうには外の景色が見える。しかし、夜のバスや夜行列車ではそうはいかない。車内に灯りが灯っているため、窓の外は見えにくくなっている。

賢治はその様子を“水族館の窓”になぞらえた。一方、陽水が見ればそこは黒い壁”にしか見えない。実は二人の見ている世界は異なる。賢治は窓に映る自分を含めた車内の様子を見ている。しかし、陽水は窓の外に広がる漆黒の「闇を見ているのだ。物理的には賢治の見方が正しい。陽水は窓に映る車内の風景には気も止めず、外に広がっているであろう、黒い闇に全集中しているのだ。この二人の感じた心象の違いは何に起因するのだろう。

『せつなさ通りの帰り唄』

私の持っている本、『井上陽水 せつなさ通りの帰り唄』に、この歌に関する陽水のコメントが出ている(69頁)。

東京渋谷に「ジャンジャン」というお店があり、そこで歌っていたんです。ジャンジャンの前にバス停があり、そこで歌う時は必ずバスで行きました。昼、そこへ行く時はとても道路が混んでいて時間がかかるのですが、仕事が終わって帰る時は、道もすいていてすごく昼間に比べると信じられないくらい早く走るのです。 陽水

夜のバスと夜汽車。夜を走る乗り物は乗っている人を詩人にすることだけは間違いなさそうだ。私もよく夜行列車に乗った。そのとき、窓に映る車内の風景を見ていたのか、車外の闇に目を向けていたのかは、今となってはあまり記憶にない。それは、私の読書癖によるのかもしれない。実は、本を読みながら、夜汽車に乗っていたからだ。

このことを賢治と陽水が聞いたら怒るだろう。
「馬鹿者! 窓を見なさい!」
その理由はおそらくこうだ。
「ほら、明日が見えるだろう。」

私の持っている『井上陽水 せつなさ通りの帰り唄』(ドレミ楽譜出版社、1973年)。キャンプなどにも持っていたので、雨に濡れ、かなり痛んだ状態になっている。私の青春の一冊、というところか。


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