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宮沢賢治の宇宙(76) 洋々社『宮沢賢治』全17巻

25年越しで宮沢賢治をまとめる

「うーむ、これは凄い・・・」

そういうしかないのが洋々社から刊行された『宮沢賢治』全17巻だ(図1)。第1巻は1981年、そして第17巻は2006年。25年かけて全17巻になった。

最初にこのシリーズの存在に気づいたのは数年前のことだ。その頃『銀河鉄道の夜』を読んで、賢治に関心を持つようになっていた。古書店で第14巻(1996年刊)『「銀河鉄道の夜」新考察』を見つけたので、迷わず購入した。

調べてみると全17巻であることがわかり、全巻、読んでみたくなった。そんなとき、別の古書店で全17巻をセットで売っているのを見つけ、無事購入できた。7000円だったと思う。発売時の販売価格は第1巻が1000円、第17巻が1800円だから、ずいぶん安く手に入れることができた。

最初に買った第14巻は友人にあげることとなった。

図1 が洋々社から刊行された『宮沢賢治』全17巻。うーむ、やっぱり凄い。

『銀河鉄道の夜』は大人気

さて、驚くべきことがある。それは、全17巻のうち、四つの巻で特集されているのが『銀河鉄道の夜』なのだ(図2から図5)。

第1巻 特集 銀河鉄道の夜
第7巻 特集 銀河鉄道の夜・再考
第14巻 特集 「銀河鉄道の夜」新考察
第17巻 特集 ジョバンニ

図2 第1巻の特集、銀河鉄道の夜の目次。
図3 第7巻の特集、銀河鉄道の夜・再考の目次。
図4 第14巻の特集、「銀河鉄道の夜」新考察の目次。
図5 第17巻の特集、ジョバンニの目次。

『銀河鉄道の夜』は賢治にとって特別なのか?

全17巻のうち、四つの巻で特集されている『銀河鉄道の夜』とはどういう童話なのか? 賢治にとって特別な作品なのか? こういう疑問が湧いてくる。

賢治は『銀河鉄道の夜』にどんな想いを込めたのか? 賢治の中では、法華文学から少年小説への脱却という歴史がある。1921年、東京に家出をした賢治は国柱会で理事の高知尾智耀に会い、詩歌文学で法華経の教えを伝えることを示唆された。賢治の「雨ニモマケズ手帳」に次のメモが残されている(図6)。

「◎高知尾氏ノ奨メニヨリ 
1, 法華文学ノ制作 
 名ヲアラハサズ 
 報ヲウケズ、
 貢高ノ心ヲハナレ」 
(『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻、(上)、563頁)

賢治はまず法華文学を目指したのだ。

図6 「雨ニモマケズ手帳」に残された高知尾智耀に関するメモ。(『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻、(上)、563頁)。やや不思議なノウハ「雨ニモマケズ手帳」は昭和6年10月上旬から年末か翌年初めまでに使用されたものだと推察されていることだ(第十三巻(上)126頁)。昭和6年といえば、1931年。高知尾智耀に会ったのは1921年なので、なんと10年の開きがある。

賢治の良き理解者であった詩人・作家である森荘已池(1907-1999:本名は森佐一)は賢治の作品について、次のように述べている。

宮沢賢治は自分の童話作品のすべてを、思想のプロパガンダに使うものであることを、はつきりいつている。つまり具体的に書けば『大乗仏教の真意を、ひとびとにひろめるために童話を書く』ということである。これは明白に、思想のために書くのだということであるととつていいであろう。つまり、文学のための文学、芸術のための芸術ではなかつたのである。イデオロギーのための文学である。 (『宮沢賢治『銀河鉄道の夜』作品論集』石内徹 編、クレス出版、2001年に収められている“「銀河鉄道の夜」— 研究ノート” 森荘已池、11-20頁)。

森はさらに次のようにも述べている。

『銀河鉄道の夜』は、牧師の説教ではなく、正しく坊さんのお説教なのである。はなはだ行儀のよくないいいかたであるが、説教が最高の文学作品になつているのである。 (同上、12頁)

これを受け入れるかどうかの判断はあるが、賢治が一時期、法華文学を目指したことは事実だろう。

しかし、賢治は考え方を変えた。法華文学から少年小説へと路線を変更したのだ。それは賢治のメモに残されている(図7)。これを見ると、賢治は『銀河鉄道の夜』の他に、『ポラーノの広場』、『風野又三郎』、そして『グスコーブドリの伝記』の併せて四つの作品を特別視していたことがわかる。(なお、一般に流布しているのは『風の又三郎』だが、賢治は『風野又三郎』というタイトルしか書き残していない。また、童話『ポランの広場』は1924年以前に書かれたもので、戯曲『ポランの広場』もある。)

図7 作品題名列記メモ(『【新】校本 宮澤賢治全集』第十巻、校異篇、73頁)。『小沢俊郎 宮沢賢治論集 I 作家研究・童話研究』(有精堂、1987年、240-274頁 “宮沢賢治童話類集メモ考”)によればこれらのメモが書かれた年代は次のようになっている。その1:1931年(昭和6年)頃、その2:1930-1931年(昭和5-6年)、その3:1931-1932年(昭和6-7年)。賢治が『銀河鉄道の夜』の第四次稿を書き始めた頃のメモであることがわかる。

The Great Milky Way Rail Road

ある時期、賢治は『銀河鉄道の夜』のタイトルとして凄いアイデアを持っていた。それは“The Great Milky Way Rail Road”だ。日本語にすると、“偉大なる天の川鉄道”。賢治は天の川にも、鉄道にも敬意を表していたのだ。

このメモの日付は1931年9月6日。賢治のなくなる二年前、『銀河鉄道の夜』の最終形(第四次稿)を仕上げていた頃のことだ。

図8 宮沢賢治の兄妹像手帳にある銀河鉄道の夜に関連するメモ (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻、(上)本文篇、405頁)

賢治が少年小説への脱却を図った作品は『銀河鉄道の夜』だけではない。『ポラーノの広場』、『風野又三郎』、そして『グスコーブドリの伝記』がある。これらも洋々社の『宮沢賢治』で取り上げられてはいる。しかし、どうみても『銀河鉄道の夜』は別格の扱いである。

“The Great Milky Way Rail Road” 賢治のこの作品への思いが多くの読者に通じたのだろうか?

いずれにしても私は勉強不足だ。

洋々社の『宮沢賢治』全17巻。実は、買ったはいいが、あまりにも大部で、まだ、パラパラとしか眺めていない。『銀河鉄道の夜』の特集の目次を見てみると、内容は多岐に渡る。「幸い」、「生と死」、「愛」、「宗教」、「天文学」、「科学」など、キーワードもたくさんある。

しっかり読んで、賢治の世界に入り込んでみたい。今は盛夏。しかし、夜長の秋が来る。

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