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ゴッホの見た星空(18) 番外編:一般相対論的な描写法?


銀河のお話し」の状況設定と同じです。 こちらをご覧ください。 https://note.com/astro_dialog/n/n7a6bf416b0bc

遠近法が無視された絵

天文部の部室には輝明と優子がいた。
この日、優子はまたゴッホの画集を見ていた。
「部長、ちょっと気になる絵があるんです(図1)。」
「ゴッホの絵に?」
「はい、なんというか、歪んでいるような・・・。」
「歪んでいる? それは気になるね。どの絵?」」
優子が画集のページを開いて見せくれた絵は、《夜のカフェ》だった(図2)。
見ると、なんと《夜のカフェテラス》の隣のページに出ている絵だった。

図1 優子が眺めていた本は『ファン・ゴッホ その生涯と作品』(マイケル・ハワード 著、田中敦子 訳、ガイアブックス、2015年)。この本の左ページに《夜のカフェ》が出ている。
図2 ゴッホの《夜のカフェ》。1888年9月。アルルにあるカフェ・ド・ラ・ガールの室内。油彩、キャンバス。72.4×92.1 cm。イエール大学美術館所蔵。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夜のカフェ#/media/ファイル:Vincent_Willem_van_Gogh_076.jpg

この絵に描かれているのは気だるい雰囲気のカフェだ。ビリヤード台が置いてあるが 、四つ玉用の台か。椅子に腰掛けている人の中には、もう酩酊している感じの人もいる。すでに、夜更けか。星空は出てこないが、気になる絵だ。

この絵に関するゴッホの手紙が二つあるので紹介しておく。

1888年9月9日 日曜日 ならびに9月14日 金曜日 (妹の)ウイレミーン・ファン・ゴッホ宛
ちょうど、ランプで照らされた夜のカフェの室内の絵を描き終えたところだ。夜徘徊している哀れな男たちが部屋の片隅で寝込んでいる。部屋は赤で塗られ、その中にはガスランプの下にビリヤード台があって、それが床の上に大きな影を投げかけている。この絵の中には六つから七つの異なる赤色がある。鮮血のような赤から柔らかいバラ色まであり、それらが同じぐらいの数の薄い緑から深い緑までの色と対比されている。
(『ファン・ゴッホの手紙 II』圀府寺司 訳、新潮社、2020年、316頁)

1888年9月9日 日曜日 テオ・ファン・ゴッホ宛
僕は《夜のカフェ》という絵で、カフェというのは人が身を持ち崩し、正気を失い、罪を犯す場所だということを表現してみようとした。
(『ファン・ゴッホの手紙 II』圀府寺司 訳、新潮社、2020年、316頁)

「《夜のカフェ》は結構有名な一枚だね。」
「はい。この前話題にした《夜のカフェテラス》は、遠近法のおかげでキリッとしまった絵になっていました。一方、この《夜のカフェ》の方は、遠近法が微妙に乱れているように思います。」
「なるほど、よく見るとそうだね。ちょっと待って、調べてみよう。」
輝明はパソコンに《夜のカフェ》の絵を取り込み、遠近法のチェックを行なってみた。床や壁、天井の堺、そしてビリヤード台を使って線を引いてみると、予想どおり、線は一点に収束しなかった。
「優子のいう通りだ。この図を見てごらん。三つの場所に線が収束する(図3)。これでは、絵が歪んで見えるはずだ。一点消失法ではない。」

図3 ゴッホの《夜のカフェ》に遠近法のチェックを行なってみたもの。三つの場所(図中のA、B、およびC点)に線が収束する。

ゴッホは《夜のカフェテラス》で「一点消失法」による見事な遠近法の技術を見せた。それなのに、なぜ、こんな歪んだ世界も描いたのだろう。不思議だ。

そのとき、輝明の頭の中に、もう一枚の絵が浮かんだ。
「優子、もう一枚、歪んだ絵を思い出したよ。」
「どの絵ですか?」
「《ファン・ゴッホの寝室》だ。同じテーマで三枚の絵があるけど、そのうちの一枚がこれだ(図4)。」

図4 《ファン・ゴッホの寝室》1889年9月、サン=レミ、油彩、キャンバス、56.5x 74.0 cm、オルセー美術館 https://ja.wikipedia.org/wiki/フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧#/media/ファイル:La_Chambre_à_Arles,_by_Vincent_van_Gogh,_from_C2RMF_frame_cropped.jpg

「これをじっと眺めていると、やはり違和感がある。その違和感はどうも遠近法が正しく使われていないからだと思う。」
「たしかに、そうですね。そのことを強く感じるのは二つの椅子。特に、奥に置かれた椅子が変です。床にきちんと置かれていないように見えるからです。それから、右の壁に掛けられた二枚の絵もきちんとした向きにはなっていないのかな。」

「美術史家の圀府寺司さんが次のように説明している。」

ファン・ゴッホが「絶対の休息」を表現しようとしたという寝室の絵。しかし、画面からはそのような感じは必ずしも伝わってこない。部屋自体がきれいな長方形ではないうえに、広角レンズで見たような誇張された透視図法で描かれていて、《夜のカフェ》にも似ている。消失点に向かう線に沿って並べられた床の筆触、ベッドの赤なども「休息」の表現には合わない。椅子が2脚に、枕が2個。何か意味があるのだろうか。(『もっと知りたいゴッホ 生涯と作品』圀府寺司、東京美術、2007年、39頁)

「やはり、プロの方もこの絵と《夜のカフェ》の類似性を指摘していますね。」
「それから、同じく美術史家のエルンスト・H・ゴンブリッジがこの絵を論評している。」

 明らかにゴッホは、物の姿を正確に写しとることに主眼を置いてはいない。物を見て自分が感じることを、色と形で伝えたかったのだ。そして、人にもそれを感じてほしかった。彼は、写真のように本物そっくりに描いた絵を指して、「立体メガネ」で見ているようだと言っている。彼はそういうものを書きたいとは思わなかった。感情を伝えるためなら、形を誇張し、歪曲することさえあった。『美術の物語』(エルンスト・H・ゴンブリッジ、河出書房新社、2019年、548頁)

「この文章を読むと、ゴッホがなぜ歪んだ部屋を描いたのかが分かるね。だって、「物の姿を正確に写しとることに主眼を置いてはいない」のだから当然だ。」
「二つの椅子に座るのはゴッホとゴーギャンなんでしょうか?」
優子はぼそっとつぶやいた。

歪みを感じる眼

絵を眺めていた輝明はひとつのアイデアを思いついた。絵の歪みを説明するアイデアだ。しかし、かなり、唐突なアイデアだ。それはアインシュタインの一般相対性理論。ニュートンの万有引力に取って代わった重力理論のことだ。つまり、 “ゴッホは「一般相対論的な観察眼」を体得した”。そんなバカなとも思うが、輝明はこのアイデアにのめり込んでいった。

「部長、どうしたんですか?」
一人でニンマリしている輝明に優子が声をかけた。
「おっと、ごめん。ちょっと、面白いアイデアを思いついたんで、考えていたところだ。」
「どんなアイデアですか?」
「命名すると「一般相対論的な観察眼」っていうやつだ。」
「はあー?」
優子は間の抜けた声で返した。

「優子も知ってるように、僕たち高校生は物理でニュートン力学を学ぶ。投げたボールの行方は計算できるし、斜面を落ちる物体の運動もわかる。」
「はい、便利です。というより、運動方程式はすごいです。」
「しかし、ニュートン力学が趨勢を保ったのは19世紀末までだ。20世紀になるとアルベルト・アインシュタイン(1879-1955)が提唱した相対論がニュートン力学に取って代わった。絶対時間と絶対空間は葬り去られ、時間と空間は相対的なものに取って代わった。」
「はい、まだ相対論は習っていませんが、その話は知っています。いったい、何が、どう違うんでしょうか?」
「うん、僕もまだ習っていないから、お話だと思って聞いてくれ。」
「はい。」

万有引力から一般相対論へ

「地球は太陽の周りを回っている。」
「公転運動ですね。」
「これは万有引力のおかげであると習った。ところが一般相対論ではまったく違った考え方をする。」
「どんな考えですか?」
優子は興味津々だ。

「一般相対論のエッセンスは単純だ。
質量を持つ物体がある = その場所の時空は質量分布に応じて歪む
こういうことなんだ。」
「つまり、太陽があると、周辺の時空は太陽の質量分布に応じて歪むということですか?」
「おお、優子、すごい。その通りなんだ。」
「ちょっと、この図を見てごらん。」
輝明はパソコンを開いて、一枚のスライドを映し出してくれた(図5)。

図5 地球の公転運動の説明。(上)ニュートンの万有引力、(下)一般相対論。地球は太陽の質量分布が作る時空の歪み(青い円周)に沿って運動しているだけである。

「ニュートンの万有引力とアインシュタインの一般相対論との比較ですね。」
「一般相対論は一言でいえば、重力の理論だ。万有引力は物体の質量に比例し、物体間の距離の二乗に逆比例する。一方、一般相対論は物質があると、周辺の時空が歪むことを意味する。この考え方に従うと、地球の公転運動は、次のように理解される(図5下)。」

・太陽の周辺は太陽の質量により時空が歪んでいる
・地球はその歪んだ時空に沿って運動している

「よくわかりませんが、説明はシンプルです。」
「米国の物理学者、ジョン・ホイーラー(1911-2008)が一般相対論のエッセンスを次の言葉でまとめた。」

物質は空間に曲がり方を教える
空間は物質に進む方向を教える

「なるほど。シンプルで、わかりやすいです。」
「地球の公転運動をこれに沿って説明すると、さっき言ったようになる。」

太陽は空間に曲がり方を教えた
地球はその曲がった空間に沿って動いているだけ

「ホイーラーさんの説明のあとだと、この説明がスウっと入ってきます。」
「要するに質量があるとエネルギーがあることになり、時空を歪める。その歪みが重力として伝わる。こういう仕組みだ。」

註:エネルギーを E、質量を m、光の速度をcとすると、E = mc2という関係式がある(こちらは、一般相対論ではなく、特殊相対論で導かれたもの)。

情熱も時空を歪めるのか?

ここで優子が質問する。
「ところで、この話がゴッホの絵の理解に繋がるんでしょうか?」
「いい質問だ。《ファン・ゴッホの寝室》の絵に戻ろう。」
「はい。」
「二つの椅子と壁にかけられ二枚の絵には、遠近法という観点からは歪みを感じた。どうしてだろう?」
「ひょっとして、ゴッホには特別な思い入れがある部分なんでしょうか?」
「なんか、そんな感じがする。ゴッホの情熱かな。」
「二つの椅子と二枚の絵には他のものに比べて、ゴッホのエネルギーがより多く注がれている?」
「たぶん、ゴーギャンへの想いだろう。エネルギーと質量は等価なので、ゴッホがエネルギーを注いで描いた椅子と壁掛けの絵は周辺に比べて質量が大きくなっている。そのため、一般相対論的に考えると、そこでは時空の歪みが大きくなっている。だから、遠近法からのズレが生じてしまい、奇妙なエリアとして見えてしまう。僕はこれを一般相対論的描写法と呼ぶことにした。」
「すごい名前!」

「この効果で期待できることは、椅子と壁掛けの絵の部分だけ絵の具の量が多く、質量密度が周辺に比べて高くなっていることだ。このため、時空の歪みの程度が大きくなっていると解釈する。」
「まだ、誰も考えていないアイデアじゃないでしょうか。」
「まあ、そうなんだけど・・・。」
「何か、問題が?」
「うん、重力はあまりにも弱いので、絵の具の量が少し多いぐらいでは、時空の歪みが見えないんじゃないかと心配している。」
「新たなアイデアを提案しただけでも、よしとすべきです。」
優子の慰めに、輝明の顔に笑顔が見えた。
「いずれにしても、ゴッホは感情に教えられたとおり絵筆を動かしただけだ。ゴッホの目の前には出来上がった絵がある。ゴッホはそれを眺め、周りの人に振り返ってこう聞くかもしれない。
「うまい絵だ。これは誰が描いたのか?」

追記 万有引力とアインシュタイン方程式の比較を示しておきます(図6)。式の説明はしませんが、参考にしてください。

図6 (左)ニュートンの万有引力。(右)アインシュタインの重力理論。 写真はWIKIPEDIAから。

<<< ゴッホの遠近法については、以下の note をご覧下さい。 >>>
ゴッホの見た星空(15) 《夜のカフェテラス》の遠近法https://note.com/astro_dialog/n/n4e511095ddc2

ゴッホの見た星空(16) 《夜のカフェテラス》で最後の晩餐をhttps://note.com/astro_dialog/n/n5354fd1f648b


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