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ASTROSCOPE #46


この頃よく頭をよぎるのはあらゆる「おわり」のことである。

自分のこと、家族のこと、学校や職など、自分が直接かかわる社会のこと。
あるいは、ニュースの中の人間や、事件事故のこと。戦争のこと。

“軍靴の音が近づいてきている。”
数年前に祖母が手紙の中に記していた一文。

安心や安全をどう確保していくのか。
リスクが多すぎて、その事実だけ異様に詳しくなっていく。
インターネットの海を無数に漂う失敗や惨事を吸い上げては不安になる。
不安な割にはインターネットの外で何かアクションを起こしているわけでもない。

「見ているだけじゃ寝ているのと一緒」
留学先で反政府デモや人権運動に参加していた友達が言ってきた。

ニュースは悪いことばかり連日報道している。
悪いこともあればいいこともあるけど、悪いことの「最悪性」が年々絶望的に上がっていく。

寝ているうちに、緩やかに詰を重ねているような気がしてならない。

そうして生きていくうちに、ちゃんとレールを敷こうという至極合理的な、
とても堅実な考え方になった。ここ数年の間、リスクの多さや不安定さ、先の見通せなさからくる安全性の重要さからきているのかもしれない。

しかしどうにも、心身がいうことを聞かない。
短期的な課題から長期的な目標までを管理できない。
疲弊している心身である。

本当はまだやったことのないことをしてみたい。
いろんなことをしてみたい。
馬鹿で、愚かなので、全然心身がいうことを聞けない。
社会が望むような社会人になれる気がしない。

そもそも「ふつう」じゃないから普通じゃいられない。
そして何かしたいという気持ちが奥底で渦巻いている。
変な理屈のピュアな野心である。
孤立でもある。

そこまで考えて、エゴエゴしい痛さで我に返った。
そして思った。
Astroscope、やめてる場合じゃないかもしれない。

だからAstroscopeを再開することにした。

昨今インターネットの言論はとてもセンシティブになった。
学級会どころか承認欲求サンドバッグのような、殺伐としたスレッドもよく見る。

正直インターネットの大海原に発言して、弱小アカウントで発信しても何もないと分かっていても、アルゴリズムの動きは読めないから怖い。
何もないという保証がどこにもないし、
「変にバズって袋叩きにされることは、99.9%ない」
と思っていても0.1を引く可能性は否めない。

これから書き連ねることの未熟さも至らなさも責任をもって書いていく予定である。何か間違っていることや問題がある点があれば遠慮なく連絡してほしい。間違いから学びを得たい。


最近よく考える「おわり」は、自分の終わりである。
どこで死のうか、どんな風に「おえよう」か。

安らかには無理でも、せめて何かプラスな感じで終われないか。
自分がどんな風に生きて、終わるか思いをはせることは、結構大切かもしれない。
命あるものはいつか死ぬし、始まりがあるということは終わりがある。

頑張るって言っても、どう頑張るかの具体的方向性が著しくかけているこのAstroscopeとその他もろもろの時間と人生なのだが、まず考えることをやめない、という根本的な理念と決意だけ再度書き記しておきたい。

Astroscopeは謝罪文だ、と昔書いた。でも罪悪感だけではない、別の角度から切り込めないだろうかとも常々考える。

責任として、「営み」として、書くことをやめられない自分の、考え続けている跡を記録する。
私的な役割。
そして、こういうことがあったんだよな、と見てもらうことでリマインダー的な機能を付ける。公的な役割と。

あんまり自分の身に起こったことを発信するのは考えていなかったが、この数年で経験したことも少しずつ記録していこうかとも思っている。

どんな風に終わろうか。
いつかこのAstroscopeだって「終わる」。
それがいつどんな形になるのかはわからないがせめて、それが何かプラスな方向性であることを望むし、そうしていくつもりである。

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