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炎のストッパー🔥広島東洋カープ❤️‍🔥津田恒実物語


1986年9月24日、広島東洋カープ津田恒美は、後楽園球場のマウンドに立っていた。
相手は、津田恒美がライバルと意識した男。
読売ジャイアンツの主砲原辰徳。この日、36号本塁打を放っていた。常にONと比較されて苦しんでいた男が初の本塁打王を獲得するほどの勢いをつけていた年だった。

9回裏4対1でカープがリード。2ストライク2ボール。5球目真ん中やや高めの150キロのストレートをフルスイング。ファールとなった。
原は打席を外し、天を仰いだあと、その場に座り込んでしまった。
津田恒美の唸りを上げた豪速球は、原辰徳の左手有鉤骨を砕けさせた。

この骨折の後、原は全盛期のようにグリップが握れなくなった。
後にこの怪我で
「ホームラン打者としての原辰徳の打者生命は、終わりました」と語っている。
津田恒美とライバル原辰徳の語り継がれる名勝負。

そして、5年後の1991年4月14日の広島市民球場で、2人は、再び運命的な対決を迎える。
この年の2月のキャンプで津田は、頭痛を訴えていた。その4月である。

8回表、津田は、その日ジャイアンツを無失点に抑えていた北別府の後のリリーフに立った。1対0で、広島リード。

その時、脳の病巣は、全身を蝕んでいたに違いない。最初の打者の川相へのストレートは130キロをやや超えるスピードだった。
川相にヒット、続くブラッドリーに死球。そして迎えるは、ライバル原辰徳。
ワイルドピッチで2.3塁とした後、原にヒットを打たれ、同点とされ、マウンドを降りた。

これが津田恒美の生涯最期の登板になることを、津田は、勿論想像していない。

この翌日に、病院で、CTを撮ると、脳に白い影が見えていた。
津田が酷く悪い体調だったと想像出来るのは、4月25日に手術を行っていることである。

翌々年の1993年7月20日に、永眠。その知らせは、開催されていたオールスター戦で、公表された。

「もう一度マウンドに上がりたかった」の言葉を残した津田の生涯成績は、10年間で、登板286試合 49勝41敗90セーブ
突出した成績ではない。記録に残る選手ではなく、記憶に残る炎のストッパー津田恒美。

それを物語るように2012年7月20日、京セラドーム大阪で、チームメート北別府と共に野球殿堂入りの表彰が行われた。
北別府が「7月20日、津田恒美の命日に表彰され、喜んでいると思います」とコメント。
そして、ライバル原辰徳監督からも北別府に花束が渡された。
津田の肖像がマウンドにあり、その光景を見つめる津田夫人の姿があった。

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