【💙増田明美さん♥】覚えてらっしゃる方いるかなぁ3(昭和の名ランナー)#262
私の中の女子マラソン選手と言えば、増田明美さんです。
有森裕子さん、高橋尚子さんも興奮させてくれましたが、私は増田明美さんが一番印象深い。日本女子マラソンの先駆者ですからね。また、私の中では、悲劇(御本人は、思っていないでしょうが)のランナーでした。
若干20歳。女子マラソンが初めてオリンピック種目となった1984年のロスアンゼルスオリンピックの代表選手です。
以前書かせて頂きましたが、瀬古利彦さんもロスアンゼルスオリンピックが最初のオリンピックでした。
増田明美さんは、前年1983年に、2間30分30秒の日本記録を出します。それが期待となり大きなプレッシャーとなりました。メンタルも強くなかったと後日お話されていました。
そして、望んだ1984年のロスアンゼルスオリンピック。その当時のトレーニング方法や、過大なプレッシャーもあり体調不良で、16キロ時点て棄権。先行逃げ切り型で勝利していた彼女ですが力尽きてしまいました。 そして、この時不運だったのがスイスのアンデルセン選手が、最後のトラックでフラフラになりながらもゴールしました。これが何度となく、テレビに映し出されました。あんなに頑張ってゴールした選手がいる中で、棄権するなんてだらしない等とその当時のメディアから袋だだきに会います。私も同じ感想てさたが、あまりにも叩かれるので、同じ歳で20歳の彼女を気の毒に思いました。
この時は、オリンピックで初めて行われると言う事で日本陸上協会から白羽の矢がたってしまった事が結果として不運でしたね。選手層が薄かった。マラソンをやる女子選手も少なく、世界と記録に殆どの選手が追いつけなかった。 その当時の増田明美さんのコーチは、4年後のソウルオリンピックに増田明美選手を出そうと考えていたそうです。 有森裕子さん、高橋尚子さんを育てた小出監督も、慌てずに育てなければ、日本マラソン初のオリンピック選手は、増田明美さんだっただろうと語っておりました。
その後、アメリカ留学し、宗兄弟にコーチされ楽しく走る事を知った後、引退されました。
今は、素敵な解説者。選手時代のインタビューを覚えている私は、こんなに明るい人だったのかと驚いています😊
永六輔(上を向いてあるこう、明日があるさ等、沢山の作詞を遺された)さんのラジオに出演されて、お話されていました。永六輔さんから色いろ学んだようです。「取材とは、材を取るということ」で、選手を調べあげ、細やかなインタビューをして、テレビの本番に望む。増田明美さんは、永六輔さんが、何よりも生の現場の声を大切に番組を作られたことを実践され、今のマラソン解説者の型を作られました。
彼女は永六輔さんに、走る事を教えていたようです。
しかし、NHKドラマのナレーションをされたのは、驚きました😊
さ
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