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宇宙をあげる


時刻は丁度3時30分になった頃、風呂から上がって猫を撫でていた。猫はすみれという名前で、うちに来てもう8年にもなる。どうやら食べるのが好きらしく気づけば握りつぶせそうだったガリガリの子猫がふくふくとした丸っこい猫になっていた。
すみれという可憐な名前には似つかわしくないほど逞しい。
そんな猫を愛おしいと思う。愛とは案外浅いのかもしれない。


特別なことのように人は愛を語る。
知ったように、まるで全てを見てきた先人みたいな口調で_
くだらないと思った。
小学生の頃、図書室で初めて読んだ小説は愛を語っていて、馬鹿だと思った。そんなふうに手と手を取り合う者達や、そしてそれを読んでいる自分自身さえ大馬鹿で、くだらない未熟な思考回路で、何かを必死に考えて何かに必死に苦しんでるその状況全てに腹立った。


死が日常だったから。
わたしはきっともっと穏やかに生きたかったのかもしれない。残虐で後味の悪いバッドエンドは大嫌いだ。苦しくてもどかしくてどうしようもない現実味を創作物の中では感じたくなかった。
格好つけてバッドエンドが好きだとも言ってみたりしたが、あれは嘘だ。
ハッピーエンドは美しい。その感覚を忘れてはいけないような気がしている。


飼っていたウサギが死んだ。
その日少しみない間に死体がなくなっていたから、一体誰がどこにやったんだと父の弟が騒いでいたら祖母は平然と「ここだよ。」といって生ゴミの中から死んだウサギの肉塊を鷲掴みにして見せてきた。
幼いながらその光景はよく覚えていて、気持ち悪いと思った。
祖母はいわゆる感情が欠落しているタイプの人間だった。その掴んだ死体をまた生ゴミの中に押し込んだ瞬間恐怖と可哀想だという気持ちでいっぱいになった。
ただそのウサギの顔があまりにも死を実感させたのだ。とても安らかとは言えない、シンプルでなんだかプラスチックのモノみたいだと思った。


死や生を考えることが疲れた。
大切な人とかいう言い方も、友人や親友や恋人なんていう呼び名も全部しっくりこないみたいな人がいる。友人にしては親しすぎるし恋人なんて言い方は浅い。家族はなんか違う。
そんなよくわからない人をわたしは多分本当の意味で愛していて、苦しい。
X(旧Twitter)でわたしが投稿する君というものは大抵その人のことを指しているのだが、あまりにもラブレターすぎて少し照れ臭くて笑ってしまう日もある。

「君と死ぬために生きる」
言葉が愛か、行動が愛か。
わたしと君の場合、生まれてきたことそのものが愛だった。君と生きるために生まれてきたのだとしたらこの残酷で穢れた世界もどうでもいいかもしれない。
馬鹿みたいだと気恥ずかしいと笑ってくれても構わない。いつか言葉にできなくなるだろうから。
全てを諦めるには十分すぎる絶望だったから、せめて君と笑っていたい。

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