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言葉を魔法と言うには軽すぎて


【頑張れ】

困難にもくじけず、物事を成し遂げるように、相手を激励するための、呼びかけ。 「頑張る」の命令形で、支援・応援の掛け声として最も一般的な表現。

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言葉は魔法のように万能ではないが、言葉は何より大きな力をもっていることは確かである。
誰かの綴る言葉に心を掴まれるのはきっと綴られた言葉にその人の想いがのるからであって言葉そのものに大きな力があるかと言われればないと思う。
誰がどう伝えるかで言葉は変わる。
同じ意味合いの言葉でさえ全く違うものに変わることができる。言葉とはそういうものだ。

先日友人と話していた。
友人は今受験で毎日勉強と試験に追われ、とても疲れた様子だった。だから最後じゃあねの後「頑張れ」のひとことをかけるのを躊躇った。
そのひとことで友人が壊れてしまいそうだと思ったから、かけようとしてやめたというのが正しい。
そして「頑張れ以外の同じ意味の言葉が欲しい」と言ってしまった。
友人はすごく分かるとそう言って笑って、しまいには「あなたのそういう感性が素敵だ」となぜか私が励まされてしまった。
その出来事以降「頑張れ」という言葉について日常の中でぼんやりと考えることが増えた。
「頑張れ」ってきっと「ありがとう」の次くらいに使うことが多い言葉だと思う。それは応援してるよ。という気持ちまでのせてくれることもあるからとても便利でとても容易く言えてしまう言葉。
まるで魔法のようだと思ったりする。

容易い言葉はときに人を傷つける。
何も考えず口をついて出た言葉はときどき誰かの心に深く突き刺さり、どうしてそんなことを言ったんだと口論になったりする。
そういう場面を幾度もみてきたから、言葉には常に慎重に向き合うことにしている。
私の両親と姉は三人ともお喋りが好きなくせに言葉足らずなところがあってよく口論になっていた。
私はそういう場面をみて「馬鹿な人たち」だと心の中でいつも小馬鹿にしていた。
だけど私もそんな“馬鹿な人たち”と同じだったようで、学校という小さな社会に飛び出した頃「言葉足らずで何を考えているのか分からない」と言われることが増えていた。
私が知らない間に私が誰かを傷つけていた。
友達はみんな離れた。一人も残らなかった。
高校生になった頃、私はずっとこうなんだろうなと生涯孤独なんだろうなんて、思ったりした。


きっとあの日「頑張れ」を言ったところで友人は壊れなかっただろう。ただ少しのしこりは残ったかもしれない。言葉は色んな可能性を秘めているから、とても慎重にならなければいけなくて、でも慎重になりすぎれば無口で無愛想にみえるのだから難しい。
だから言葉はまるで魔法のようだというには軽すぎて。




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