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幸せの基準、まちがえたくない

今日は早起きができて朝ごはんを食べれて、家族と少しお話もしてアルバイトの電話もできた。今日もまた少し進めた気がする。
とてもゆっくりだけどそれでも私にとっては全部大きな進歩で、少し心が温かくなるのを感じる。

私はずっとまちがえていたみたいだ。
もっと勉強しなきゃ、可愛くならなきゃ、痩せなきゃ、普通にならなきゃ_
ずっと何かに追われていたから、下ばかり見ていて本当に見るべきものが何ひとつ見えていなかったんだ。
すぐ近くにある細やかな幸せを大切にすべきだったのにそれを蔑ろにしてまで遠くばかり見た。そうして“正しく生きること”にやたらとこだわって生きた結果なにもかも失ってしまったのだから愚か者とは私のことである。

SNSを見ていると幸せの形はそれぞれだと感じると同時に私の感じている幸せは正しくないのかもしれないなどと思わされる。
綺麗な顔の人、お金持ちの人、高スペックのカップル、ブランド物のコスメを持つ中学生_
人はきっと幸せの奴隷で、幸せになるために生きている人は多い。
そうなるように育てられたからだ。
幸せであればあるほど良くって、それを見せつけることで幸せはもっと幸せになる。だから友人そっちのけでオシャレな料理の写真を撮るし会話を遮って自撮りをする。
そういうのを全部見下して愚か者だと言えるほど私は偉くない。私だって幸せの奴隷である。幸せを求めて苦しんでいるどうしようもないただの人だ。

自分の中の幸せを信じるべきだと感じる。
SNSに感化されて「こうならなくては」と焦るのは私にとっての幸せではない。
美味しくご飯が食べられて、同じことで人と笑い合える。大好きな人が隣にいる。私の人生の幸せはこれでいい。何もかも失ったからこそ目の前にあるものを大切にしたい。





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