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偉人は聖人君主であるべき問題(「青天を衝け」主人公渋沢栄一から考える)

先に結論から申し上げます。私のエントリーで再三申し上げている通り、成否を分ける最大要因は運です。偉人、スーパースター。時代を彩る凄い人たちが、なぜ彼らが偉人となり後世に語り継がれる存在になったのか。全ての事例から関連する要因を紐解くと、最後に残るのは運です。ですので、偉人=聖人という方程式は全く成り立ちません(なお、成り立たないから偉人=悪人である、もまた成り立ちません。聖人のような人も居れば、そうでない人もいる、即ち、相関関係はないということです)。

それでは、渋沢栄一の例を見てみましょう。あまり知名度の高い方ではありませんが、今回の大河で色々調べた人も多いでしょう。私も、一応知ってはいましたが、それほど詳しくはありません。ですので、大河で勉強したいなと思っている視聴者の一人です。

ざっと言えば、明治維新後の富国強兵を押し進める日本の中で、金融、陸運、海運、商社、電力・ガス、各製造業、更には教育等の公益事業。それぞれの社名は検索していただくとして、500以上の会社・団体の設立に携わったと言われています。現代でいうところの、孫さんや前澤さんといった方の祖先とでも言えるかもしれません。「日本資本主義の父」と呼ばれるほど、近代日本の礎を築いた、まさに「偉人」なのです。

「性豪」として有名な渋沢栄一

ただ、そんな偉人ですが、聖人であったかどうかは色んな意見があり、少なくとも「性豪」であったということは有名な話です。代表的な著書に「論語と算盤」があります。自己の利益を求めるのではなく、事業の公益性の重要さを説いた名著ですが、息子・渋沢秀雄が書き留めた母(栄一の妻)の言葉が非常に面白いので紹介します。

「母も晩年には悟ったらしく、論語に性道徳の教訓が殆どないのを知って、笑いながら私にこう言ったものだ。『父様も論語とは旨いものを見つけなすったよ。あれが聖書だったら、てんで教えが守れないものね!』」

まあ、奥さんも旦那の性欲の強さには諦めていらっしゃったことがこの3行でよく分かります。

この「論語と算盤」のエピソードだけでも、渋沢栄一の人となりがとても鮮明に浮かび上がってきます。つまり、事業家として、単なるお金儲けに目のくらんだ成金ではなく、永続的なビジネスをする上で、公共の利益を重視して事業展開を行なった偉人であること(そしてその証拠として、実際に現代も続く名だたる大企業を多数生み出したこと)、その一方で、「論語」を持ち出すことで、自分の弱み(=性豪)の言い訳をする余地を残した、聖人とは言い難い人物であるということ。

そうです、渋沢栄一は「偉人」ではありましたが「聖人」ではないのです。そして同様に、多くの偉人は必ずしも聖人ではありません。

偉人=聖人であって欲しいという心理

では、なぜ私たちは偉人に聖人性を求めるのでしょうか?

一つには、よくある伝記に起因します。伝記は子供たちの教育のために使われます。私個人的には、表も裏も知った方が良いと思っていますが、特に幼少期の教育においては、裏を知らない方がいいという判断があるのかもしれません。この辺り、私は専門家ではないので、よく分かりません。感覚的には、裏も知ってこそ、教養が深まると思ってはいます。なぜなら、全てのものには表面と裏面があるからです。いずれにせよ、子供向けの伝記には、それこそ渋沢栄一の女好きの部分は描かれません。こういう教育を受けてきているので、「偉人は全てにおいてスーパーな人なんだ」と思ってしまうのです。これは、高みを目指すという意味では良いのかもしれませんが、反面、「煩悩に悩まされる自分は所詮凡人でしかない」という、悪い意味の諦めを覚えてしまう可能性があると感じています。

もう一つには、そうあって欲しいと願う私たちの願望も強く影響していると思います。私たちの多くは、偉人にはなれません。ごく僅かの限られた人が偉人となっていきます。そういう選ばれた人たちは、当然ながら選ばれた能力を有しており、我々とは違う存在であって欲しいと心のどこかで願っているのではないでしょうか?そうしないと、自分が偉人ではないことの理由がよりネガティブになります。つまり、偉人=聖人であり、そうではない自分は偉人になれなくても凡人だから仕方ないと落とし所をみつけられますが、偉人=普通の人、ですと、じゃあ、偉人にもなれない自分は普通以下の人間ではないか、となるからです。要するに、偉人が高位でないと、自分の相対的価値がどんどん下に下がってしまうのです。ですので、偉人は聖人であって欲しいと、心のどこかで思っているように思います。

偉人も運と開き直る心の持ちよう

ですが、最初に述べた通り、そして渋沢栄一で見た通り、偉人=聖人ではありません。渋沢栄一の残した業績は偉大で替え難いものですが、ここまでのものを残せたのは運の要素が一番大きいということです。要するに、偉人=普通の人の中で特別運の良い人、または時代に適した人、と言えるかもしれません。そして、そのように思った方が、心に優しいとも思います。一生懸命頑張ってみた結果、うまくいったら運が良かったと思え、うまくいかなくても運が悪かっただけと開き直れる。自分は渋沢栄一にはなれなかったなあ、残念だけど運だから仕方ない、と思う。結果は運に任せた方が心に余裕が生まれ、幸福感が上がります。

人はどうしても結果を求めてしまいます。誰だって、良い結果が来て欲しいと思います。私も勿論、その一人です。だけれども、結果は運に大きく左右されます。たまたま上手くいくし、たまたま上手くいかないのです。未来の結果に振り回されるのではなく(そして、過去を振り返るのではなく)、今を大事にする。偉人ですら聖人ではなく、そういう人間的な部分を持っているので、自分の弱みは気にしない。そういうスタンスが取れれば、とても心が楽になり、幸福感を持てるのでは、と思っています。何度も繰り返しますが、私ができている訳ではありません。そうありたいと願っているだけで、なかなか上手くいかずに足掻いている日々です。でも、そうして足掻くことこそ、人生なのかなと思っています。

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