きみに伝えるヒストリー㉓
第一次世界大戦
1914年8月に第一次世界大戦が勃発しました。この時は、これを欧州大戦あるいは世界戦争と呼ばれてました。第一次と付くのは第二次世界大戦後からです。
事の発端は、この年の6月にオーストリア帝国のフランツ大公夫妻がボスニアの首都のサラエボ訪問時に、セルビアの民族主義者の若者に射殺されたことによります。オーストリア政府は犯人グループの引き渡しを要求しますが、セルビアはこれを拒否します。そして8月にオーストリア・セルビアで戦争が始まり、それぞれ支援国が参加して第一次世界大戦が始まりました。
オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したことにより、民族間の対立がありました。これに軍事同盟に基づいた二極化が合わさり、ドイツ・オーストリア連合とセルビアを支援するイギリス、フランス、ロシア連合との争いとなりました。
日英同盟を結んでいる日本は、イギリスの再三の要請により、この大戦に参戦いたしました。11月に日本とイギリスの連合軍は、ドイツが清時代より租借していた山東省の青島と膠州湾の要塞を攻略し制圧いたしました。中華民国も参戦いたしますが、実際は日本軍任せでした。
対華二十一か条の要求
この状況により、翌1915年1月、日本は袁世凱政権に対華二十一か条の要求を出しました。ドイツが持っていた権益を日本が継承することを明確にする必要がありました。また日本が日露戦争後にロシアから引き継いだ満州における権益を清の後継政権である中華民国においても明確にしておくことを目的としておりました。以下がその骨子となります。
第一号、山東省のドイツ権益を日本が継承する
第二号、旅順・大連の租借権と南満州鉄道の権利期限をさらに99年間延長すること
第三号、漢陽等における鉄や石炭の経営独占
第四号、中国の沿岸と島を外国に割譲しないこと
第五号、軍事や財政機関に日本人顧問を置くこと、および日本人警察を駐留させること、また中国軍の武器は日華合弁か日本からの輸入とすること、日本の病院・寺院・学校の土地所有権を認めること
などの要求でした。これは大隈重信首相と加藤高明外相の責任において出されたものでしたが、山県有朋を中心とする軍部の要求や財界の希望などが取り入れられておりました。
最終的には、第五号の項目を除外して、袁世凱は受諾いたしました。袁世凱は日本に対してはかなり厳しい態度を持っておりましたが、革命党を根絶やしにすることと、また自らが皇帝になるという信念により、いったん日本に譲歩する道を選んだことによります。
イギリス、フランス、ロシアは、この要求の内容は妥当だとして干渉はしませんでした。ただアメリカは不当な要求だとして新聞などを用いて非難攻撃をしてきました。
帝政の復活と廃止
一方袁世凱はこの交渉の折に、皇帝就任についての日本の了解を取り付けました。その後、列強各国にも了解を取り付ける工作を行いました。その後、皇帝推戴の運動を展開いたします。そして帝制復活につき議会で投票を行い、一票の反対もなく、袁世凱に即位推戴書を提出する運びとなりました。1915年12月のことです。
しかしながら、中国民衆は二十一か条要求とこの帝制復活に対して、猛烈な反対運動を起こしていきます。上海では排斥日貨同盟が設立され、日本製品の不買運動が起こされました。そしてこの要求を受諾した袁世凱にもその矛先は回ってきます。
立憲派の梁啓超は反袁世凱闘争にリーダーシップを持って進めていきました。日本は21か条要求を袁世凱が承諾してくれたとはいえ、現状の世論の強さから判断して、彼の先行きに不安を持っておりました。そこで、梁啓超を中心とした立憲派と結ぶこととなります。
反袁世凱の諸勢力が、各地で兵器工廠の襲撃や警察署への蜂起など起こします。そして雲南省や広西省が独立を宣言するという事態にまで陥りました。この状況を見て、1916年3月、袁世凱は帝制を廃止いたしました。わずか数か月という短命で皇帝就任を終えました。そして、もはや皇帝を否定することのみならず、総統としての権力をも危ういものとなってきました。
そして、袁世凱の腹心の将軍たちまででも、四川省や湖南省で独立宣言を行います。これは袁世凱を精神的に苦しめることとなり、6月に入ってついに彼は失意の中で病死いたします。
群雄割拠の始まり
袁世凱の死去にともない、黎元洪(Li Yuanhong)が大総統となり、段祺瑞(Duan Qirui)が国務総理となり政権を担います。しかしながら、段の派閥である安徽派は、黎元洪と馮国璋(Feng Guozhang)が率いる直隷派と対立していきます。馮国璋はこの後、副大総統に就任します。これら両派はともに袁世凱の北洋軍閥の分派です。
日本は段祺瑞を袁世凱の後継者として支援しますが、欧米列強は黎元洪や直隷派を支援しました。よって、段祺瑞は黎元洪とも対立していくこととなりました。日本の支援を得た段祺瑞は鉄道や電信電報及び兵器など各種のための借款契約を日本と結びます。
一方、孫文は北京政府とは別に広東軍政府を樹立します。ただこれは実効支配領域を持たないため、国際社会からは認められませんでした。その後、中国大陸全体をまとめあげる人物が出てくることもなく、各地方を根拠とする群雄割拠の時代に突入いたします。
石井・ランシング協定
1917年2月、アメリカは対独宣戦に布告し第一次世界大戦に参戦いたしました。中国大陸での日本の特権に神経をとがらせていたアメリカとの対立を回避するため、日本はアメリカの戦争参戦への感謝という名目でアメリカと交渉を持つこととしました。
駐仏大使であった石井菊次郎特使がワシントンに赴きランシング(Robert Lansing)国務長官と会談を持ちました。石井・ランシング協定と呼ばれるものです。内容は以下です。
*日本は中国の門戸開放を支持する
*アメリカは日本の中国における「特別な利害関係」を理解する
と、日本の意向に沿った内容となりましたが、一方ランシングは弱腰外交とアメリカ内では批判されました。
ロシア革命
この年の3月にロシアでは首都のペトログラードで革命が起こり、ニコラス二世が退位し、臨時政府が樹立されました。三月革命です。ロマノフ王朝であるロシア帝国は崩壊しました。
そして、11月には、ウラジミール・レーニン率いるボルシェビキ(ロシア共産党)が武装蜂起し、臨時政府を倒しました。ここにソビエト政権が樹立されます。11月革命です。
ロマノフ王朝は日露戦争で敗北してからは、権威を落としておりました。そこへ第一世界大戦の戦闘でドイツに敗北したことが引き金となって、デモとストライキが起こり、それが革命へとつながっていきました。
ロシア革命はマルクス主義者のレーニンの主導の下で進められました。退位したニコラス二世はその後、家族ともども射殺されます。後々のためにロマノフ家の血を絶っておく必要があったものと思われます。300年続いた王朝がその血統とともに滅びました。
レーニン率いる革命政権、つまりボルシェビキ政権は露仏同盟を離脱し、ドイツと単独で講和条約を結び、大戦から離脱いたしました。ドイツはロシアと対峙していた東部戦線の兵力を西部戦線に振り分けることができ、イギリスとフランスは苦戦していきます。
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