見出し画像

きみに伝えるヒストリー⑲

日露戦争

 1903年にはいって東清鉄道が完成したことによりロシアの極東進出が急テンポに展開してきました。奉天や営口(共に遼寧省、奉天は今の潘陽)まで兵力を増強いたします。朝鮮にも侵入して、鴨緑江下流の龍巌浦を占領し、その租借を要求しました。

 日本とロシアは日露協商に向けて基礎条項について交渉を始めました。日本案は清と朝鮮の独立、領土の保全、商工業の機会均等を骨格とした案を出しております。これに対してロシアは、満州についての清の領土の保全は否定し、満州及びその沿岸は実質的にロシアの領土であること、朝鮮は日本の軍略に利用されてはならず、39度以北の朝鮮は中立地帯とすべきこと、という返答を出しました。これは両国においてほとんど妥協の余地がないということを明白にしただけでした。

 1904年2月6日、外相の小村寿太郎はロシアの駐日公使を外務省に呼び寄せ、朝鮮からの撤兵を求めました。これは最後通告でした。ロシアはこれを拒否いたしました。これを受け、8日に仁川、旅順のロシア艦隊を攻撃し戦争の口火を点け、10日に宣戦布告をいたしました。

 乃木希典大将が率いる陸軍第三軍は、遼東半島突端の旅順港を見下ろす二百三高地を攻略しました。4か月の時間と4万人の犠牲者を出してのものでしたが、これが勝敗を決することとなります。そこから旅順港に陣取るロシア太平洋艦隊に向けて砲弾の雨を降らせました。ロシア艦隊は降伏いたしました。

 ロシアのバルチック艦隊はウラジオストクに入港する命をニコラス二世より受けていました。そのためには、対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡のいずれかを通る必要があります。

 連合艦隊司令長官の東郷平八郎は最短距離を通ると読み、対馬海峡ルートで待ち構えることとしました。予想は的中しました。連合艦隊はバルチック艦隊の進路を阻み、それを撃滅いたしました。日本は一隻の沈没艦も出さずに圧倒的な勝利でバルチック艦隊を打ち破りました。

 イギリス製の連合艦隊はバルチック艦隊と比してスピードと精度が優れていたことによります。また、バルチック艦隊の動向の情報もイギリスよりもたらされておりました。さらにイギリスはロシアへの石炭の供給をストップし、日本の戦費捻出のためイギリス国内で国債の募集を許可しました。日英同盟の効力が発揮したといえるのでしょう。

 司馬遼太郎の小説に「坂の上の雲」というのがあります。そこでは日露戦争とそこに至るまでの勃興期の日本を映し出しております。

 主人公は日本騎兵の父と呼ばれた奉天合戦で有名な秋山好古将軍、好古の弟でバルチック艦隊撃滅の折に参謀として活躍した秋山真之、それと俳人正岡子規の愛媛県出身の3人です。

 秋山好古は奉天合戦でヨーロッパで開発されたばかりの機関銃を用いてコサック騎兵を破り、大勝利を収めました。

 また、秋山真之は東郷平八郎の下で作戦担当参謀として、ロシアの太平洋艦隊の封鎖のための旅順港閉鎖作戦やバルチック艦隊の迎撃作戦などを立案し、日本海海戦に貢献しております。日本海海戦の際に、真之が作成した出撃報告電報の一節、「本日天気晴朗なれども波高し」が名分として有名です。つけ加えますと、その後に「皇国の興廃この一戦にあり、各員、一層奮励努力せよ」という東郷の全軍への士気を鼓舞した言葉は、戦前(第二次世界大戦前)の学校では教えられてました。

 この小説の中で、司馬遼太郎は日露戦争について以下のように表現しています。「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることにはまちがいない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追いつめられた者が、生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったこともまぎれもない」と。

ポーツマス条約

 まさしくぎりぎり状態での戦争でした。よって日本政府は開戦と同時にいかにして戦争を終わらせるか、という厳しい課題があったのです。戦争が長期にわたれば、軍事力と財政力が限界に達し、劣勢に転じることは明白でした。そのために、劣勢に転じる前に仲介者を立て、できるだけ有利に講和に運ぶしかないと見ておりました。

 そして、この仲介ができるのはアメリカ以外には無いと考えました。こうして日本政府は、ハーバード大学でセオドア・ルーズベルト(Theodore 'Teddy' Roosevelt) 大統領と同窓であった金子堅太郎を特使として送りました。金子は伊藤博文のもとで大日本帝国憲法の起草および制定に尽力しており、伊藤内閣時には農商務や司法大臣を歴任しておりました。

 渡米した金子は日本がこの戦争に立ち向かわざるを得なかった日本の大義を、演説や新聞を通じて伝えました。そして、同窓のルーズベルトには持参してきた新渡戸稲造の著作「武士道」をプレゼントいたしました。もともと日本人の性格や精神性に興味を抱いていたルーズベルトの琴線に触れるとよんでおりました。彼は上下院議員にこの本を配布しました。また5人の子供たちにも「武士道」を読ませたと言われてます。

 「武士道・Bushido」は農業経済学者であり教育者である新渡戸稲造が日本の道徳観念を英語で表した本です。1900年にニューヨークで刊行されております。武士道と言っても武士だけのことではなく、武士の時代に培われた道徳精神が日本の理念であり、明治維新後の国民の力の源となるものであるというものです。副題には「 The Soul of Japan」とあります。

 この「武士道」という素晴らしいツールをもってアメリカ懐柔作戦は功を奏しました。ルーズベルトを講和の仲介に引っ張り出すことができたのです。もっとも、中国進出に後れを取ったアメリカとしては、先行しているロシアや日本のどちらが大勝するより痛み分けの方が都合が良かった、という事情があったことも否めません。いやむしろ、その事情の方が強かったのかもしれません。

 1905年9月、ボストン近郊のポーツマス海軍工廠で日露戦争の講和会議が開催されました。日本側は小村寿太郎外相、ロシア側はセルゲイ・ウィッテ(Sergei Yul'jevich Witte) が全権でした。

 戦勝国としての立場で臨んだ小村は当然の権利である賠償金の請求と樺太の割譲を求めました。ウィッテは敗戦国と認めません。ロシア国内が革命運動が起こったことによる戦争続行が困難になったという事情があったためであり、そして何よりもロシア軍にはまだまだ余力があったことが彼を強気にさせました。

 これ以上戦争が続けば日本の勝機は失われる危惧から、小村はルーズベルトの仲介に沿うことにしました。賠償請求は撤回し、日露講和条約(ポーツマス条約)を結びました。以下が条約の主要項目です。

*日本の韓国の保護権を認める
*南樺太(北緯50度以南)を日本に割譲する
*遼東半島の租借権を日本に割譲する
*東清鉄道の南満州支線(南満州鉄道)の租借権を日本に割譲する

 賠償金の獲得はできませんでしたが、本来の日本の戦争目的であったロシアの南下を止め、韓国をロシア傘下から外すことができました。目的は成就いたしました。しかしながら、小村は帰国した折に新橋駅で群衆から罵倒され、講和反対の集会が催され、それが暴動となり日比谷焼討事件となりました。賠償金や樺太全島を獲得できなかったことによります。戦争勝利のお祭り気分を新聞に煽られて一般市民が暴走したのです。

韓国を保護国に

 また、日本はこのポーツマス条約締結に先立ち、その条約の仲介国であるアメリカと講和を結んでおります。フィリピン訪問の途中に日本に立ち寄ったアメリカ特使のタフト(William Taft)陸軍長官と桂太郎首相(兼外相)との間で交わされました。大韓帝国における日本の保護国化とフィリピンにおけるアメリカの支配権を互いに承認したものです。これが桂・タフト協定です。

 そして、イギリスとは第二次日英同盟を結び、イギリスのインドにおける特権と日本の大韓帝国の保護国化をお互いに認めるものといたしました。

 このように日本は列強から大韓帝国(韓国)の支配の公認の下、第二次日韓協約を結びました。1905年11月のことです。韓国の外交権を日本に譲渡し、日本の保護国となる旨のものです。

 初代韓国統監は伊藤博文です。日本の初代内閣総理大臣をこの職に任命しました。日本にとって、いかに韓国が重要であるかのあらわれです。日清戦争、日露戦争ともに朝鮮問題が主要因です。韓国が近代化して富国強兵となるまで外交権を預かっておこうというものでした。

警戒するアメリカ

 12月には、満州に関する日清条約(満州善後条約)が締結されました。これは、ロシアから日本に譲渡された満州利権を清が了承する内容のものです。日本が獲得した主項目は以下となります。

*関東州(遼東半島の南部)の租借権
*長春~旅順・大連間の鉄道経営と関連権益
*安東~奉天間の鉄道経営権
*鴨緑江流域での木材伐採権

これより日本は満州経営に進んでいきます。

 南満州鉄道の権益を得た日本は、鉄道事業のみならず、炭鉱、製鉄、港湾、電力などの関連事業も行えるようになりました。この地での発展の礎を築くことができました。

 一方、アメリカは日露講和条約の仲介をいたしましたが、中国大陸進出を狙っていることは変わりありません。

 そのような状況にアメリカの鉄道王ハリマン(Edward Henry Harriman)は目を付けました。そこで、日本に南満州鉄道の共同経営を持ちかけました。これに井上薫や伊藤博文、それに桂首相も賛同いたしました。やはりまだロシアの脅威が残っており、アメリカの協力を受け入れるメリットを考慮したことによります。桂・ハリマン条約の仮契約を結ぶことになりました。

 しかしながら、ポーツマス会議から帰国した小村外相は、断固として反対いたしました。多くの日本兵を戦争で亡くしてやっと手に入れた満州の権益をハリマンと共有することは、許せなかったのです。最終的には、条約は破棄されました。このことはアメリカから見れば、日本による中国大陸でのアメリカ排除の姿勢と映りました。そして、ルーズベルト大統領も日本への警戒感を抱き始めたこともあり、日本をこのままにして置くことはできない、という考えが沸き上がってきました。この後アメリカは太平洋艦隊の設立に動いていきます。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?