和歌山県

しばらくnoteのテキストが更新できなかった為、
下書きに保存していたものになります。


10月3日火曜日から和歌山県勝浦に足を運びました。



初めて足を運んだのは5歳の頃です。


叔母が亡くなって、その葬儀にです。
灯籠流しを、幼心に淋しく眺めていました。
夜の海に漂う、心細く程度灯る灯籠たちを小さく
小さくなるまで見送って、淋しさと怖さを同時に
初めて味わいました。


2度目は高校2年生の冬でした。
1度目の。
父と2人で。



3度目は20代半ばだったでしょうか。
それ以降、30歳になるあたりまで度度足を運んで
いました。
でも、それ以降は全然足を運べておらず、なので、
今回20年以上ぶりになるのです。



羽田空港で待ち合わせして、内田さんと一緒に飛行機で
向かいます。
白浜空港まで50分で着いてしまうという速さ、尽く
凄いなと思います。
しかし、そこから100km程の距離があるので、2時間以上
時間かかります。

なので、近くのラーメン屋に入りました。
大自然は売るほどあるものの、店という店はしばらくありません。
今年2杯目のラーメンは和歌山ラーメンでした。

そこからしばらく車に乗って、でも、僕は景色を楽しみながら、
なので、時間を感じませんでした。
橋杭岩を過ぎて、でも、折り返してもらい、そこで車から降りました。
圧巻の景色です。
1つ1つの巨大な岩が1列に並んでいます。
その向こうの荒波も手前の浅瀬の水の綺麗さも、見惚れます。


車に乗ってまた、目指します。
その後、那智の滝に向かいます。
従兄弟の有子さんから連絡あり、那智大社で働く僕のファンという
方の案内してもらいます。
那智の滝の凄さに圧倒されます。
どのくらい離れているのか分かりませんが、それなりに離れています。
でも、見上げる顔に滴がかかるほど激しく落ちてきます。
那智大社でお参りしようにも閉まっていたので翌日の
約束をして宿に向かいます。


0時頃、父が部屋に入って着ました。
最終の電車が勝浦まで来ないので、有子さんに迎えに着てもらい
やってきました。
翌朝、親戚一同で墓参りに行きます。
2冊目の著書「死にぞこない」の表紙で立嶋家の墓の写真に
してもらいたいと駄駄を捏ねて、田中(誠一)さんにお願いして
撮りに行ってもらいました。
表紙が墓の写真の書籍なんて他にないのではないかと思います。


文章が下手糞だからアイデアを幾つも出しました。
文章の内容や、手描の栞、表紙なども前作同様に。
売れた本でもないですし、大したことなどないことは自分で
理解していますが、でも、やる以上は気持ち張って臨みたい
という意気込みでした。



会ったことのない爺さん婆さんに、そしてご先祖様に来年への
誓いも含め報告します。
その後、太地町に移動し、みんなで昼飯を食べました。
僕はもちろん鯨です。
有子さんが僕が食べたがっていたのを思い出してくれて
秋刀魚寿司も買っていてくれました。
酢で〆た秋刀魚の押し寿司です。
鯖とまたちょっと違う旨さです。

父はこれが食いたくて、でも、秋刀魚寿司が千葉県には売っていない
からバッテラを代わりに食べていたのだなと思ったりします。
勿論、鯖も元元好きなのでしょうが、でも、違います。
どちらがという訳ではないですが。

秋刀魚を食べて、お茶を飲んで口の中が、あら素敵。
柑橘類の香りがまた堪らないのです。

その後、みんなで那智の滝に移動して、翌日は父と眺めます。
133メートルの高さは本州一です。
それより高い滝が北方領土にあるそうですが、返還されるまで
日本一です。


終戦後、沢山の人が身を投げたそうです。

なので、立入禁止になったそうですが、
「父ちゃん、子供の頃にあそこまで登ったことあるよ。」
父は誇らしげに云います。
でも、僕は高いところが駄目なので、133mの高さから
見下ろすことは出来ないでしょう。

その後、宿に戻り1度部屋に戻り、立嶋家の親戚会を
今度はホテルで。


話しかけられたら恥ずかしいので一番入り口に近い
前列端に座りました。
奥の端から挨拶が始まって、手前端の僕が最後になりました。
恥ずかしい。


ご顕在の最年長の兄泰さんがもう大分歳を召されているので
そりゃそうです。
末っ子の父が81歳ですから、みなさんそれ以上です。
会話もままならなく、兄弟も皆思い出せないそうなのですが、
僕のことだけは覚えていてくれて、よく僕の名前を口にして
くれているそうです。


自分の挨拶をして、乾杯の音頭を頼まれたので元気よく
乾杯をして叔父さんのところに挨拶に行きました。
会話もままならないけれど、満面の笑顔を見せてくれました。


その後、真っ暗な露天風呂に入り、そりゃそうです。
海っぺりなので耳を澄ませて、波の音を聴きながら足元も
見えないのでゆっくりと進み、入ります。

部屋に戻ってすぐに眠りに落ちました。
翌日、5時半に起きて、着替えて寝ている父に挨拶して
部屋を出ました。



ロビーには有子さん見送りに来てくれて、挨拶をして
別れました。
これだけの人数への連絡やら何やらで相当疲れたと
思います。


20歳の頃、「試合後に富士山が見たい。」と清水戦後、
家族旅行を提案しました。
微微たる僕のファイトマネーで静岡県に行きました。
最後の家族旅行の機会だろうなと思ったのです。
なので、それなりにはしゃいだりしたのです。
装ったわけではないですが、でも、強引に。
事実、そうなりました。


今回、思っていたことがあります。
きっと父もそう思っているのだろうなと思いながら
父の背中を見ていました。
「これが最後の故郷。」
そんな想いが滲み出ていました。
海を見ながらあらゆる記憶を引っ張り出そうとでも
しているかのような空気を放っていました。

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特にお得なことはないかもですが、でも、僕が 思うこと、感じたことなどを日日綴ります。

100戦してこれまでの減量や試合にまつわる客席からは 感じることのできないことなどを 綴れたらなと思います。 なんの参考にはならないけれ…

これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。