死にぞこない 第4章架橋

目次
頭蓋骨

難聴
脆歯
心臓を狙え
疼く
斬れ味
臑毛
皮膚が吸う
タイミング
トンネル
成長期
フェザー


8月26日(日)-2週間後
 今日、6時半過ぎにジムに行き、40分頃走りだした。
 いつもよりも少し遅めのロードワーク開始だった。いつもなら30分早い6時には走りだしている。それよりも1時間早い5時から走りだすことも
ある。暗い道を走るよりは明るいうちに走りたいという気持ちがある。
僕は誰もいないうちから走りだすのが好きだ。一番乗りは気持ちがいい。
夏は暑いから、夕方でもまだジム内が熱をこもっていてジムワークができ
ない。だから、6時頃から走り始めて、7時前からジムワークをする。
日が出ているうちはとてもじゃないけれど暑くて練習にならない。日が
沈んでからのほうが、まだ体も動く。でも、今日はいつもより走り始めが
遅かった。
 遅い時間からのロードワークだからちょっと多めに着込んでも大丈夫
だろうとあらかじめ持ってきていた減量着上下を着て走った。
走り始めは涼しく、着こんだ方が、汗がかけるような気がした。しかし、
少し走ると汗が流れだし、手首や足首の裾から汗が垂れ始めた。気がついたら靴下までびっしょり濡れていた。
 オレンジ色の景色がそろそろ一日の終わりを告げているかのように感じた
僕は、日没しても走って汗がかけるように減量着を着た。上下。
 確かにそろそろ着込んで走る時期にはなったけれど。
 1周2キロのコースを3周するのがジムワーク前の日課になっている。
2周目を走り終える頃、辺りはすっかり夜になっていた。夜というには
まだ早い時間に街灯が点き始めた。
 3周目を走り終える頃、辺りはすっかり夜になっていた。
僕は拳を握り締めた。爪が食い込むほど強く握り締め、そして両拳を掲げた。空を突くように高く掲げた。
 両拳を揚げたまま、前を向いて真っ暗な道を走った、
 僕のこれからは、上ではなく前にある。
 この前方に2週間後の試合が待っている。その後の僕のこれからは、その先にある。これから、本格的な減量に入っていく。
 本格的に帰る準備をしなくてはいけない。
 そこに僕のこれからが待っているから。
 
頭蓋骨
「頭大丈夫か?」
 長年のキャリアと、どうしても頭を殴りあうため、僕の体を心配して
父は言う。異常がないことは自分でもわかっている。けれど、長年僕の
試合を観続けている父にそう言われると少し心配になって、頭の検査を
受けることにする。MRIの結果次第では選手生命にかかわるため、
結果が出るまで落ち着かない。
 少しして、名前が呼ばれて診察室に入る。
「こんな分厚い頭蓋骨見たことがない。普通の人の倍はあるね」
 真顔で医師は言う。そして、検査の結果も言わずに、ただMRIで
撮った頭蓋骨の写真を眺めて感心している。
「この商売をするために生まれてきたような頭だね」
続けて、結果を言う前に僕の頭蓋骨の頭を褒める。
そして、
「異常ありません。両親に感謝しなさい」
 ようやく、無事を告げる。
 検査の結果を喜んで欲しくて急いで父に伝えると、
「馬鹿だな、その分『脳みそが少ないです』って言われているような
もんじゃねぇか」
 父は勝ち誇って笑う。僕の頭は戦闘式らしい。だから、ここまで
頑張れた。
 ただ、そういう父の頭蓋骨も相当分厚いに違いない。



8月26日(月)-13歳
 先日、ジムで若いというよりは幼い練習生が鏡に向かってシャドー
していた。
「何年生?」
 中学生だろうということはその髪型やしゃべり方、そしてニキビを蓄えた幼い顔立ちから想像できた。
「中学2年生です」
 ぎこちないシャドーをした中学生は言った。
「そう」
 僕は素っ気なく言った。
 本当は喉元まで出かかっていたその言葉を、僕は発することなく飲み込んだ。
 もうしばらくして、彼が変わらずにがんばっていたらその時に、
「今からがんばれば強くなれるぞ」
 僕がキックを始めてかけられた、そして嬉しかった言葉を投げてあげたい。
 そして今日、僕はそのオードワークを終えてリングでミットを蹴って
いた。インターバルで気がついた。ひとりの見学者が入り口近くで椅子に
腰かけて練習を眺めているのを。僕は練習中だったので、あえて気にかけず練習を続けた。
「何年生?」
 やはり中学生に見えるその少年に、歳を聞かずいきなり学生を尋ねた。
 ミットを終えて、インターバルの間にサンドバッグに場所を移した時に
声をかけた。
「2年生です」
 ピンときた僕が、
「今、君くらいの練習生がいるよ」
 そう言うと、
「友達です」
 やはり、僕の予想通りだった。
「やりたいの?」
単刀直入に言うと、
「興味があったから。漫画とかでよく見るし」
 少年は照れくさそうに言った。
「好きなだけ見ていきな、もしやりたくなったらいつでもおいで」
 僕の一言に、
「はい」
 少年は、やはり照れ臭そうに小さな声で返事した。
「俺も中2で始めたんだぜ」
 そこでインターバル終了のブザーが鳴った。
 僕は、蹴る練習をしようと思ったけれど気が変わって、肘の練習に切り替えた。サンドバッグに肘を勢いよく入れた。
 単発の鈍い音が、ジムに響いた。振り返りはしなかった。ただ、17年前の僕なら目を輝かせているだろう、そう思いながらサンドバッグに肘を打ち付けた。
 少年はどんな目で17年後の僕の練習を見ていたのだろう。
 

 その日、スパーリングで打たれた。帰宅して鏡を見て驚いた。顔の
右半分が鼻の高さまで腫れ上がっている。
 正面から見ただけでは腫れていることを自覚できる程度だったけれど、
左を向いて横目で見たら段差もない見事なまでの平面顔になっていた。
絵描き歌があろうものなら子供でも簡単に描けるであろう腫れっぷり
だった。
 数十戦試合してきているにも拘らず真直ぐな鼻が自慢だった。
腫れが引いて驚いた。鼻は右に曲がっている。僕の自慢の鼻が、見事に。
 僕は右から定位置めがけて押す。早くしないとくっついてしまうから、
腫れが引くまで待っていられない。
 鼻骨が軋む。生々しい音を耳にして断念する。それ以来、若干右が
僕の鼻の新しい定位置になった。
 それから数年して、スパーリングで再び鼻をやってしまう。しかし、
今度は右から左に打たれたらしく、腫れが引くと中央に寄って元通りに
近い場所まで戻っていた。
 いつか僕の鼻が完全に真直ぐになる日がくるかもしれない。その時は、
「また打たれたな」
 そう思って間違いないだろう。


8月27日火曜日―友達
 今日、友人と会ってきた。待ち合わせではなく一方的に僕の方から
訪ねた。一方的に訪問して一方的に話してきた。今日、僕は友人達と
会ってきた。
「ざまぁみろ!」を出版した後、僕はその友人達の家族にその本を贈った。

 家族の方に読んで貰えたら、そう思ってずうずうしく送った。
手紙を添えて。
 ひとりの友人の母は電話をくれた。友人の母はおそらく一度しか会った
ことのない僕の健康を気遣ってくれて、
「長男も買ったと言っています」
 友人の兄も買ってくれたことを伝えてくれた。僕は言いたいことが
うまく言えなかった。
「今度、うちにもいらして」
 友人の母は僕にそう言ってくれた。
 もうひとりの友人の母は1冊贈ると、僕の手から買いたいと手紙を
くれた。手紙にはお金が挟んであった。
 ありがたくその気持ちをいただいて僕は本を数冊贈った。
 今日、僕は友人たちと会ってきた。忘れることのない友人達と会ってきた。
 午前中、僕はひとりの友人が待つ、改札もない静かな田舎に行ってきた。電車が1時間に1、2本しか来ない静かな場所に友人はいる。道端には
紫蘇がたくさん咲いていて、都会では見ることができない虫達が時折、
僕の視界に飛び込んできた。朝から曇っていて、時計を見なければ朝だか
昼だかわからない天気だった。

難聴
 人間の耳には鼓膜というものがある。それによって外からの音を聴く
ことが出来る。鼓膜とは太鼓に張られた革のようなもので、外からの音を
振動して伝えてくれる。しかし脆く、外からの圧迫によって簡単に破ける。でも、
人間という生き物は中々優れた生き物で、破れた鼓膜を勝手に再生
してくれる。ザリガニもハサミがもげると一番前の足が大きくなってハサミになる。ピッコロだって腕が抜ければ生えてくる。再生とは素晴らしい。
 しかし、問題もある。鼓膜は太鼓の革のように張られていないと音は正確に伝わらない。僕の鼓膜は破れすぎて波を打っているため、音が正しく伝わらない。俗に難聴という僕のその耳は、鼻をかんだだけで耳から空気が漏れる。だから、人に呼ばれても付かないことが多い。

8月28日水曜日―五感
今日、昼の12時過ぎに外に出た。減量着を上下着て帽子を被って外に出た。少し歩いてから走り始めた。そう、ロードワーク。
 炎天下の中、そんな格好をしているのは僕くらいだった。すれ違う人、
すれ違う人が、みんな僕を見て不思議そうな顔をしていた。僕を見た人は皆、この糞熱い真夏になぜ、そんな暑苦しい格好で走らなければいけない
のか、そんな疑問を抱いたに違いない。
 半袖や半ズボン、女性は日傘をさしている。そんな季節に僕は暑苦しい
減量着を上下着て走った。汗をかくために。これも僕の仕事だから。
糞熱い思いをして体重を減らすのも僕の仕事だから別に何とも思わない。
 アスファルトの熱で前方が揺れて見えた。建物の影の中に入り、大きく
深呼吸して、その影を走り抜けた。
 僕はタイでの減量を思いだした。タイでの減量は、あえて太陽が出ている時間に走る。太陽が真上に近いその時間に僕は日本から持ってきた冬用の
減量着を着て走った。揺れる景色の中を僕はただ、手足を交互に動かした。
 そんなタイでの減量を思い出しながら走った。ただ、真っすぐ走った。
ひたすら真っすぐに走った。
「日本海に出たら、背中を向けて真っすぐに走れば太平洋に戻ってこれるから気にするな」
 いつだったか、子供の頃、道に迷った時に運転をしていた親父が笑い
ながら言った。親父に合わせて僕も笑った。
 そんなことを思い出しながら、糞熱い中、僕は笑いながら走った。

脆歯

 歯は折れる。何かとよく折れる。職業柄仕方がないといえばそうなのかもしれない。吃驚するほどよく折れる。もちろん、シンナーを吸ったことなど一度もない。でもよく折れる。

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2003年にネコパブリッシング社から出版した 2冊目の書籍を訂正加筆しました。 全く別のもの、というわけでもなく、でも、 同じという訳でも…

これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。