死にぞこない 第3章終(ついの)

目次
逆算
蕎麦
チェックイン
夜の海
暗闇の太陽

逆算

 朝が来て、渇いた唇を爪で掻きながら目を覚ます。顔をしかめて
トイレに向かう。飲んでいないのにしっかり出る小便の量が
気になる。
「100gは落ちたんじゃないか」、まだしっかりしていない
頭でも目方には目敏い。
 量ったところで、おそらく50gも落ちていない小便を見ながら
頭の中で100g分の食べ物を想像する。用を足して、測りに
乗って現実を知って溜息を吐く。
 渇いた口の中に水を含んで、湿らせてから吐き出す。そして
歯を磨く。歯ブラシは、泡立てることなく口の中を往復する。
液体ではなく固体の唾液を吐き出す。
 目が覚めても身体が起きない僕は、床に座り呆けている。
頭に入らないテレビをただ眺める。体内の血液まで疲れている
気がする。そんなことを考えながら時間をかけて靴下を履いて、
着替えて外に出る。
 乾いた空気と乾いたシャツが乾いた皮膚を擦り、無感情な熱を
放つ太陽が乾いた僕を照らす。目方のことしか考えられない頭で、
焦点の定まらない視点で、眼に映る景色の中を、余裕もない狭い
考えで試合までの残された数日を過ごしていく。
 眼が、自動販売機を通り過ぎる時に、視点を往復させて銘柄を
左から順に覚えようとする。
 耳が、ホームで缶ジュースを飲んでいる人の、飲み込む音を
聞き取る。それに刺激されて僕は僅かな唾液を飲み込む。
 電車に乗って端に座り、手摺りに凭れて頭を垂れる。下を向いて
床を眺めて独り言を呟く。それは僕の口を吐いて出ていることなのか、
それとも頭の中でもう1人の自分が呟いているのか、わからない。
 15歳から自分の中で育てたもう1人の自分に頭が支配されて
いく。
 そして頭だけでなく僕自身も支配されて、笑うことが出来ない
自分になっていく。
 車内アナウンスに耳を傾けることや、振り返ることが面倒臭い。
他人と目が合うことも面倒臭いから、下を向いて歩く。
 1時間半程揺られて電車が駅に着くと、改札を出て自転車に
乗ってジムを目指す。自分の勝手で空腹な僕が、擦れ違う人に
意味もなく腹を立てる。
 うな垂れて、ペダルを漕ぐ足を見ながら練習メニューより先に
体重と晩飯のことを考える。
 17時、まだ誰もきていないジムに着いて鍵を開ける。たかが
着替えることで疲れたくない僕は、ゆっくりと全裸になって体重を
量る。脱いだパンツをもう一度履いて、靴下を履く。そして厚着して
外に出る。
 夕陽が辺りを染める中、長く伸びた黒い自分も引きずって、僕は
最後のジムワーク前のロードワークをする。見上げると空は朱色に
姿を変えて、まだ家に帰りたがらない蝉が鳴いている。余熱が残った
アスファルトの上を僕は走る。
 一歩一歩、股関節に響く。止めたがる足を無理やり交互に動かして
走る。ジムに戻って気休め程度にストレッチをする。その後、ロープを
跳んでからサンドバッグを叩いてジムワークを打ち上げる。
 4日前で、残りあと1kgまで体重は落ちている。晩飯は多めに
食べる。残り2日は、走って微調整をする。
 試合前日は大抵、ほとんど口には出来ない。いつも、1時間くらい
散歩して部屋で寝転がっている。昨日までの忙しさは何だったの
だろう、もう疲れなくてもいい身体で、だけど、まだ満たされていない
腹と感情で考える。
 眠っている時は、渇きと空腹感を感じない。だから、減量中は
よく眠る。 

 眠れなかったら深夜のうちにまた走る。でも、試合前日は夜眠りたい
ので昼寝はしない。
 あと1日、そう思えることに幸せを感じて部屋で眠気を我慢する。
あとたった1日経てば、計量後には食べることも飲むことも出来る、
そう思えることが嬉しい。その後、痛い思いをすることなんて考えも
しない。
 だけど、この憂鬱な1日は、とても長い。同じスポーツ新聞を
幾度も捲ったり、見たいテレビ番組などないのはわかっている癖に、
チャンネルを幾度も換える。
 そして、あと20何時間何分などと、計量までの時間を逆算する。
普段の自分からは想像も出来ないほど、試合前の自分はもう1人の
自分に支配される。
 飲めなかったことに怨みを抱いていたジュース類の銘柄をノートに
記し始める。書き出していたら止まらなくなる。ジュース類に始まって、
ご飯類、麺類、和洋中、思いつく度に書き留める。果物やアイス、
デザート類や菓子まで記す。気がつくといつも、凄い量になって
1ヶ月かけても食べきれない量になっている。
 前日までの苛立ちは、すでにない。けれど、本を読んだり、テレビを
見る余裕も集中力もない。
 昼過ぎにスポーツジムに場所を移して、体脂肪率や血圧、心拍数を
測り、時間をかけてストレッチをして身体を解す。
 これ以上、体重を落とす必要のない僕は、Tシャツ1枚に七分丈の
ジャージを履いて軽装だった。空調の風が、渇いた皮膚を優しく舐める。
太陽の炎熱に殴られることも、忙しく時間が流れることもなく、昨日まで
を懐かしく感じながら辺りを見回すと、和やかな空気を無神経に壊して、
1人忙しい昨日までの僕がそこにいる。
 1人だけ厚着で、更に冬物の上着を着て、ニット帽まで被って、
目つきの悪い自分が忙しく、暑苦しくジムの中を動き回っている。そんな
昨日までの姿を思い浮かべて、想像の中の自分を客観的に眺める。
 ストレッチをして、硬くなった気持ちも少しほぐして自転車に乗って
部屋に着くと、16時を回っていた。
「あと16時間で、」
 この日、何度目になるかわからない逆算をする。そして、やはり何度目になるかわからない冷蔵庫の扉を開けて、意味もなく眺める。冷蔵庫には
ペットボトルに入った水や、試合後に食べるつもりで購入したプリンなどが沢山入っている。食べられないことはわかっている。眺めて安心して、
だけど溜息をついて扉を閉める。
 もうリミットまでの残りの体重を逆算しなくていいことと、あと、
たった半日後足らずで計量があるということが僕を安心させる。
 朝、体重を量った時に余裕があったから僕はコーヒーを1杯飲む。
それ以降は、水一滴も口にしていない。だけど不安になって、この日
何度目だろう、飽きもせず僕は全裸になって部屋の秤に乗る。どんなに
練習して辛い減量を乗り越えたとしても、計量時にたった100gオーバーするだけで、精神のバランスは脆く呆気なく崩れる。だから、この時ばかりは面倒臭がることはない。
 増えていない体重を確認して、胸を撫で下ろしながらパンツを履く。
そして、100gのおにぎりを2つ食べる。ゆっくりと一口一口味わい
ながら、これまでの飢えを思い出して空想の中でも味わいながら、何より
旨いおにぎりを、時間をかけて食べる。靴下についた米粒を摘み上げて
口に入れる。最後にアイスコーヒーを200mlゆっくりと舐めるように
啜る。
 デビューした15歳の時から、就寝時と起床時の体重差は変わらない。1晩寝ると、就寝時の体重より400g落ちる。平常時も減量時も変わらず、同じように体重が落ちる。だから、前日でも400gオーバーまでなら
食べることが許される。
 コーヒーを最後まで啜り尽くして、身体の中に入ったそれらに両手を
合わせる。
 19時前に迎えに来てくれた友人の野崎さんは遠慮して、用意したアイスコーヒーを全部飲まない。それを見て、実家にいた頃を思い出す。
「お前がいると食いずらいから」
 母は空腹な時間を潰すため寝転がっている僕に、自分の部屋に行くように促す。いつも僕が目の前にいない時に母は食事をしていた。毎晩、練習後にサウナまで付き合う父は、試合が近づくたびに痩せていく。休憩するため
サウナから出ると、脱衣所の椅子で父はいつもうな垂れている。
 友人が残したアイスコーヒーを見て、僕は減量のたびに気を使ってくれた両親を思い出していた。

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2003年にネコパブリッシング社から出版した 2冊目の書籍を訂正加筆しました。 全く別のもの、というわけでもなく、でも、 同じという訳でも…

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これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。