死にぞこない 第7章 大阪

目次

暗雲
絶望の中の希望
バニラ
立嶋の墓
死亡遊戯
天王寺
焼餅
格下
ブランクの距離
自戒



 その後、僕の試合が組まれることはなかった。
今度ばかりはもう駄目なのかもしれない。でも、僕はまだ自分に
納得していなかった。

 2002年10月、僕は練習再開と同時に髭を生やし始める。
大嫌いなそれを次の試合が決まるまで、その試合が終わるまで
生やし続けることにする。年明けの1月19日の興行に出場する
つもりで練習を始める。
 日程から逆算して気持ちを積み重ね始める。いつも以上に体重に
気を使い、冬ということもあって早めに減量に入る。
 1ヶ月を切る前に僕の試合が組まれていないという噂が耳に入る。
でも、練習は続ける。気持ちが切れそうな気がして休むのが怖い。
 直接団体からその旨を耳にする前に、ホームページに送られてくる
ファンからのメールで試合が組まれていないことを知る。
 もう自分は終わりかも知れない。現実的にそう思う方が自然な気すら
していた。でも、まだやめたくはなかった。ただそのタイミングではない
気がしていた。それは、ただの我がままなのかもしれない。

暗雲
「俺は止めたんだよ」
 その日の一週間前、元世界チャンピオンがスポーツニュースで
一週間後に行われる辰吉丈一郎の再起戦が駄目だった時の言い逃れを
していた。
 彼は、メディアを通じて自分が散々言われてきたろうことを尤も
そうな顔で語っている。僕には、まるで自分は本当に心配だから
反対しているのだという姿をアピールしているだけのように思えた。
 自分だって結果からでしか人を判断できない多数派に噛み付いて
生きてきた少数派だったろうに。散々他人に反対されて、その中で
自分の意志を貫いてきただろうに。
 可能性が低いことに挑んではいけないのなら、世の中の勝負
そのものがなくなる。絶対的な勝負など見る価値もない。そもそも、
勝負には絶対なんて存在しない。

 12月15日、朝6時半に目を覚まして8時53分発のぞみに
乗って大阪に向かう。席に着いてスポーツ紙を広げると、前日計量の
模様が大きく掲載されている。磨り減らした筋肉を、パンツ1枚で
曝け出した辰吉丈一郎の写真が掲載されている。試合前夜、空腹で
幾度も眼を覚ます、当日計量がキャリアの殆どを占めるキックボクサーの
僕は、いつもそこでジャンルの違いを感じる。
 流れる静岡辺りの土を剥き出しにした田園風景を眺めながら温かい光
だけを浴びて、僕は丈さんのことを考える。

 僕がデビューした80年代は、ボクシングでも世界戦のみ前日計量
だった。
「前日計量ってどんな感じなのだろう」
 ただ想像するだけだった。そのうち、日本ボクシング界全ての試合で
前日計量になる。
「前日計量で試合がしてみたい」
 次第に、想像するだけでなく、羨望するようになる。そのうち片手で
数えるだけ経験することが出来るようになるも、稀に開催する大会場の
場合のみのそれで、その後も当日計量ということに変わりはなかった。
 当日計量と前日計量では、コンディションの作り方、食べ方は全然
変わる。勿論、吸収による体重の増加、疲れの取れ具合、精神状況、睡眠の質と量、全てが違ってくる。
 当日計量の場合、前日の深夜、嗽や出ない小便をしに洗面所や
トイレに急ぐ。そして早朝と呼ぶにはまだ早い時間に目を覚ます。
前日計量の場合、既に腹を満たして睡眠も十分な為、当日の朝、
走ってから10時に胃袋を和ませ、試合が夜の場合は夕方まで昼寝を
することが出来る。
 同じ頃、減量もしていない緊張感のない僕は、口に入れた鯖寿司を
ミネラルウォーターで流し込む。
 昼頃、新大阪駅に着く。外は、この数日分の寒さを精算するかの
ように暖かい。同行した編集とタクシーに乗って会場の大阪府立体育館
近くのホテルに向かう。ロビーでカメラマンの梁川さんと落ち合って、
僕らはすぐ近くの喫茶店へ場所を移し、少し遅い昼飯を食べながら先日の
テレビの感想を言い合う。そして、いつの間にか話は進んで、再起戦が
いよいよ夕方に迫った丈さんの話題になる。 
 もう10年以上、辰吉丈一郎を撮っているカメラマンの梁川さんは
不安点を並べる。僕は、ボクサーにとって異常な長さのブランクが気に
なっていた。半年、間隔が空いただけで十分なブランクを感じて、思う
ように動けなかった経験が自分には幾度かある。だから、3年4ヶ月と
いう余白は致命的にすら感じた。
 不安点を全て並べて、僕らは自分を落ち着かせようとしていただけ
なのかもしれない。
「カメラマンの立場から今、一番撮ってみたいものは何ですか?」
 席を立つ前に訊ねる。
「誰も撮っていないもの」
 席を立ちながら梁川さんが呟く。誰もしたことがないことを目指すのは、ごく当たり前の発想ということを言ってから気づく。笑いながら、自分の
失言を恥じる。少しして、席を立つ。
 店を出ると、まだ、第一試合も始まっていないのに歩いている人は皆、
体育館を目指して歩いている。僕らは時折ダフ屋に遮られながら、
ただ流れに沿って会場を目指す。

 1997年秋、大阪に足を運ぶ。今後の競技生活に迷いがあった。
るみ夫人の実家が経営する白千館でコーヒーを飲みながら他愛のない
話を
する。
「もう、出てく」
 3歳になる前の二男の寿以輝が扉を開けて閉じ篭る。
「あほ、そこはトイレや」
 丈さんが突っ込む。僕や他の客は笑う。悩みなんて最初から言うつもりはなかったけれど、彼は何かを感じ取っているようだった。
「駅まで送るよ」
 色々話して、帰る間際に彼が言う。その言葉に甘える。車が好きだという寿以輝を助手席に乗せて車は走り出す。最寄の守口市駅なら当に着いている時間にまだ、車は走っている。薄々気づいてはいたけれど、僕は何も言えず後部座席に座っていた。信号待ちで車が止まる。
「あ、自転車や」
 前を横切る電車を見て、寿以輝が呟く。後ろで僕は笑う。
「ほんまに自転車やったら凄いけどな」
 彼は物凄い速さで走る自転車の真似をする。そして、また何事もなかったかのように車を走らせる。やはり、車は新大阪駅に着く。僕は初めて訪れた時のことを思い出していた。

 1994年7月、網膜剥離から再起する辰吉丈一郎を僕はどうしても
見たかった。丁度、数ヶ月後にベースボールマガジン社から発売する
ビデオ、「立嶋篤史という生き方」の撮影を兼ねてハワイまで飛ぶ。
 試合後、ホテルを訪ねて初めて顔を合わせて話をする。
 帰国後、ビデオと専門誌の対談で大阪に足を運ぶ。
「何で、すか?」 
 白千館の扉を開けると7月の炎暑の中、彼は長袖を着ている。
「暑くないから」
 涼しい顔をして言う。
 対談後、彼は当たり前の顔をして僕ら一行を新大阪駅に送ってくれる。
暑いという言葉を通り越して炎熱日は視界を歪ませた。

ここから先は

13,590字

2003年にネコパブリッシング社から出版した 2冊目の書籍を訂正加筆しました。 全く別のもの、というわけでもなく、でも、 同じという訳でも…

これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。