死にぞこない 序章第一章死にざま

2003年春、2冊目の書籍を出版しました。それが
この「死にぞこない」になります。
 その1年半ほど前にネコパブリッシング社から出版した
「ざまぁみろ!僕はまだ生きている」に、使用されなかった記述や
それらの語彙に愛情を抱きすぎてどうしても使いたかったのです。
その後の一年を加筆しながら所所に使わせてらいました。
2008年12月に幻冬舎アウトロー文庫より出版した
「ざまぁみろ!」の文庫のように全てを書き直しました。
今回、これように加筆したあとがきの後の、「あとがきのあとがき」
にも似たようなことは記しました。
恥ずかしいので読み返すことはしたくありませんでしたが、
「ざまぁみろ!」の文庫化を目論んだ頃合いで随分前に読んでみた
ところ、幾度も恥ずかしくなって閉じたこと、これまでに幾度も
あります。勿論、今回も。そして、訂正し終えた今も。でも、
自分でいうのもなんですが、「駄目な子程可愛い」という親心で
見守ってほしいというのはおこがましいですが、でもいくばくか
だけでも多めに見てやっていただけたら幸いです。

今の僕がもう一度書き直したそれにしたかったのですが、
書き直しているにも関わらず、年数などの数字が現在からの計算で
はおかしくなってしまう箇所が出来てしまうため、今の僕の
「死にぞこない」ではなく、やはり訂正した「死にぞこない」と
いった方が正しいと思います。
いつやめてもいいように、終わりかけの自分を少ない脳味噌で
感情を込めて記しました。

**

拝啓  名良橋晃様**

がんばっていますか。僕は今、試合前の減量をがんばっています。
サッカーはどうですか。
最近どうですか。
体の具合はどうですか。
心の具合はどうですか。
気持ちの具合はどうですか。
けがはしていませんか。
肉体的に、そして精神的にどうですか。
今の僕はどうですか。
過去の僕と比べてどうですか。
僕はあの時より、大きく見えますか。
あの時より、強く見えますか。
あの時より、格好いいですか。

敬具
       
                    立嶋篤史

 忠魂碑
「忠雄の紅葉のような手が忘れられない」
 何かと父は言う。子供のころから現在に至るまで、何度
聞かされたかしれない。それでもまた、父は話す。しみじみと。
懐かしそうに。悲しそうに。そして切なそうに。
 父の一番上の兄は第二次世界大戦中、空襲で死んだ。その兄の
日記に当時3歳だった父のことが記してあるという。
 毎年、終戦記念日が近づくと父は話す。表現は少し違うかも
しれないけれど、嬉しそうに。まるで僕に自慢しているかのように。
 きちんといつも聞いているのに、まるで僕が聞いていなかったかの
ように、父は初めから話す。何度も話す。泣きそうな顔して話す。
まるで自分自身に話しかけているかのように。
 58年前の8月15日、日本は戦争で敗けた。
 父は母に抱えられて防空壕に逃げたのを覚えているという。
それからさらに27年後に生まれた僕の記憶には、その出来事は
掠りもしない。10人兄弟の末っ子の父は、15歳で死んだ兄をあまり
覚えていないという。今ではその日記をコピーして持っていると僕に
自慢する。形見のように大事に持っている。戦争が終わって33年後、
僕は1人の男と出会う。6歳の時に友達になったその男と47歳に
なった今も続いている。
 同じ学校の名札をつけて、同じ教室の黒板で勉強して、同じグラウンドでサッカーボールを追いかけて、彼は今、プロのサッカー選手として頑張っている。

 海の見える立嶋家の近くに礎がある。その礎の名を忠魂碑という。
忠魂碑には戦没者の名前が祀られている。
プロサッカー選手になった友人の名は名良橋晃という。
 何か因縁でもあるのだろうか。忠魂碑には叔父の名も刻み込まれている。
 立嶋晃。
 そう、叔父の名は晃という。
 叔父が空襲を受けたのは学徒動員された住友金属だった。そして、
その日は5月4日だった。
 16年前のあの日、飛行機が飛ばなかった。僕が知っているもう1人の
晃は、鹿島アントラーズでサッカー選手として働いている。
 名良橋が所属する鹿島アントラーズの親会社は住友金属である。

           序章 死にざま
●目次
死神
手紙
魔裟斗
アーシー
ベテラン
暴露本と称される自伝
ネット掲示板
流浪人
歩み寄り
失笑

延藤直樹
花道

〇死神
 キックボクシングって何だろう。減量中の疲れた身体で考える。
マラソンでも短距離でもない。でも、例えるならゴールのない
100ⅿ走だろうか。
 ゴングが鳴ると、スタートラインから一斉に100m先のゴールを
目指して全力で走り出す。だけど、100m先にはゴールなんてない。
 それでも選手は必死に走り続けなければならない。
 言い換えるなら、真っ直ぐなレールを、ペースなど無視してひたすら
真っ直ぐに燃料がなくなるまで突き進む。
 ある時、燃料があるのに精神力が持たなくなり、急に車輌が前進を
止めてしまう。
 また、ある時は気がつくと目の前でレールが切断されていて、
進みたいのにそこから先には進めない。

 どの道、全力で走っているある日突然、降りてきた死神が後ろから
肩を鷲掴みにして、
「はい、ここまで」
 そう宣告をする。そんなものだと思う。
選手はそれまで全力で走らなければならない。それが嫌ならやめれば
いい。
 しかし、一度走るのをやめると、もう戻りたくても戻れない。
僕らは敷かれたレールの上を全力で真っ直ぐに走ることしか許されない。
足場が悪かろうと、そんなことは客やファンには関係ない。

〇手紙
 1993年11月に東京ベイNKホールでタイトルを取り戻し、
翌年1月、キックボクシング界初の年俸1200万円の契約選手になる。
でも、契約書などなく「口約束」のそれだった。その年は半分以下、
その翌年にはそれ以下、さらにその翌年は、さらに減っていく。
 試合間隔が壊れて試合感覚も崩れていく。ファイトマネーの未払いは
額面通りなら数千万、口約束のそれでも数百万をあるというのに、
次の試合は誌面で発表される。1円ももらわないで次の試合をする。
 そして、未払いのまま次の試合が誌面で発表されて、当事者なのに紙面で
それを知る。
 未収入のまま、何ヶ月も時間は過ぎる。わずかに貰って、また何ヶ月も
過ぎる。時にヴィンテージのスニーカーやデニムなどの
金になるものから幾ばくにもならない私物も売って電車賃や
食費などに当てて、その場を凌ぐ。
 雑誌には大きく記事が出る。けれど、本当は所属するジムもない、
出稽古に通う電車賃もない、僕はそんな惨めなメインイベンターだった。
でも、やめる気にはなれなかった。90年代にテレビ中継のあった違う
類似競技に行く気にもならなかった。

 「キックは金じゃない」、とか、「キックボクシング界の為に」
なんて恰好いいことを言っていた前田何某は先陣を切って喜んで流れて
いく。
 なら、最初からそんな恰好いいことを云わなければいいのに、そう思う。
他にも迷うことなく流れた選手もいたけれど、僕は嫌だった。
 ヘビー級だけで発足当初、世間は盛り上がっていたけれど、面白い
と思ったことはない。遅く、力任せで大味すぎるといえば分かりやすい
だろうか、盛り上がりに乗る8割は元々興味などなかったから楽しんで
いたけれど、もしくは流行に乗っていることだけで満足していたけれど、
でも、僕は長くは続かないだろうと思っていた。
 その後、一度消滅して、元キックボクシング関係者らが携わって
興行をしている。
 「ヘビー級の次にフェザー級を作るから出ないか」 
 関係者を通じて話がくる。幾度も誘いは断る。
断ったら、トーナメントを作るからといって参戦の要請をしてくる。
 それも断る。その後、そのトーナメントで盛り上がっていた。

 1日のみで行うトーナメントについては発足前から苦言を
呈している。トーナメントで事故が起きたらどうするのだろう。
その発足当初、グローブをつけてやる空手の大会で事故は
起きている。ライト級は聞いたこともない。
 キックボクシングの人気が出てから当時、空手界の人間がキック
ボクシングを上手く利用して作った競技に大金を提示されても、
ファイトマネーの未払いを全て払ってくれると言われても、首を縦に
振ることはなかった。
(一度衰退して、今では違う人間がその競技を運営しているという。
以前とは少し位置づけが変わる。でも僕の考えは変わらない)
それでも、微妙にルールを変えて違う競技だというのなら交わる必要はないように思う。分かりづらい競技や選手に、世間やファンはついてこない。
分裂を切り返すキックボクシング側がいえた筋合いではないのかも
ないのかもしれないけれど、でも、残念ながらキックボクシングは
このままだろう。

〇魔裟斗
 1998年7月、簡単に見ていた選手にKOで敗ける。もう自分は
駄目なのかもしれない、その時の自分に置かれた状況では続けることに
限界を感じていた。
 貰っていない金は沢山あるのに、一度倒産したからと、社長や社員らは
悪びれる様子もなく、むしろ上からの態度で僕を扱う。倒産したとは
いえ、会社はスポンサーを替えただけで何も変わっていないというのに
払っていない金は、なかったことにする。またスポンサーを替えて、
契約書を交わすもまた未払いが生じる。そして、社長はまた新しい
スポンサーを見つけて、
でも、前回の未払いは再度なかったことにする。そんなことが続いた。
 団体は、試合をする度、僕のファイトマネーの金額を下げていく。
 翌月、8月に筑波山で合宿をやるから来いと連盟から連絡が入る。
 断る。
 試合が終わって、まだ身体を動かしていない。
「お前が来ないと取材にならないから来い」
 そして、気分屋の広報は言う。結局、行く羽目になる。昔の選手が
トレーナーとして指導するという。朝は筑波山を走って登って、走って
降りる。午後は昼過ぎから坂道を70本ほどダッシュして腕立て伏せを
500回、腹筋を500回、そして、その後に他の練習を広場で行う。
試合を終えたばかりの僕には、そんな合宿に意味を感じない。
 練習後に風呂に入ると、前月に試合した選手が頭を洗っている。背後で
桶を探していると僕に向けて、振り返りもしないまま洗面器を投げる。
 悲しいけれど、仕方ない。立場が逆転して自分が偉いとでも思ったの
かもしれない。残念な人はどこにだっている。大人になれば、どんな世界にもそんな人間はいる。悲しいかな、彼も勘違いしてしまった陳腐な1人の
ようだった。その合宿で、彼は一生懸命作った自分を演じていた。
 3日目の最終日、昼の練習前に留守番電話を聞く。無事に子供が
産まれたという。

 この合宿に何の意味も感じていなかったけれど、1人の若者と親しく
なる。気兼ねしない人懐っこいやつだった。
「苗字、なんていうの?」
 みんな下の名前で彼を呼んでいたけれど、僕は馴れ馴れしく感じて
呼ぶのが嫌だった。

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2003年にネコパブリッシング社から出版した 2冊目の書籍を訂正加筆しました。 全く別のもの、というわけでもなく、でも、 同じという訳でも…

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これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。