10戦目1989年11月25日

前年の1988年4月にフェザー級でデビューしましたが、
11月25日はフライ級で試合しました。
記憶の確認で頭の中で時を遡らせます。

この間、1年しか経っていないのですね。
バンタム級からフライ級、スーパーバンタム級へ上げて
フェザー級に戻りました。
引退したくはないですが、でも、体重が落ちてくれない
のです。
間のスーパーの階級がない時代、上げるとしたらライト級です。

幾度も記していますが、もうフェザー級ですら落ちなくて、
どうしようか頭を悩ませていました。

記憶的にはとても濃い期間でした。
僕のようなこういう経験をされた選手はいないと思うので
語り合える人がいないでしょうが、十代半ばにして身体が
おかしくなりました。
記したこともあり、記したこともないこともあり。

2年ぶりの、でも、本当はもっと早くやりたかったと
思っていました。
とはいっても、当時は17歳の日本人が、タイ人と試合を
させてもらえるようになるには早すぎる程だったのでは
ないでしょうか。 
図図しいにも程があります。

けれど、もっと早くやりたかった気持ちは抑えられ
ませんでした。
早く目標に辿り着くには少しでも早く目の前にあるハードルを
クリアしたい、そう思っていたのです。

当時の日本人とタイ人とのレベルは今では想像できない程に
離れていて、日本在住のタイ人と対戦するというのに、
試合前から諦めていた日本人が殆どでした。
日本チャンピオンですらそうなのです。
「仕方ないよ」
「タイ人だもの」
控室でみつを語録が飛び交う、だけど、それを試合前に、
です。
レベルがそれ程までに低かったのです。
問題は志のそれも、です。
「勝てないなら勝てるようになるよう努力すればいいじゃない」
マスコミも取材に来ない時代です。
中学生の頃からそれらを考えようとしない先輩選手、関係者らの
そんな態度が嫌でした。

まず、自分はそこから抜け出たいと考えていました。
自惚れ甚だしいですが、プロスポーツ選手の扱いを受けられる
ようになることが、胸を張っていえるようになることが
まず、目標です。

その頃は、タイから呼ぶには渡航費や滞在費がかかる為、
どの興業でも日本在住のタイ人を使うのが常でした。
金銭的にも実力的にも日本在住で十分、といったところで
しょうか。

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これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。