松本(人志)さん
過去に記したことと重複する箇所が幾度かありますが、
勢いで綴ったのと、僕のことなどご存知でない方にも
向けて記しているのでご容赦ください。
5月23日、ジムを休みにしてTBSに向かいました。
全力で田舎者の僕は、この歳にして初めて赤坂という
駅で下車しました。
以前記しましたが、2月後半からほぼ毎日一緒にいたので
試合後にそれがなくなって少し寂しさを感じていました。
その寂しさが薄れてきた頃でした。
1階ロビーでディレクターと会って、懐かしく嬉しくなり
ました。
昼過ぎに局内の別室に入り、収録は夕方だったと記憶しています。
室内にはベンチとテーブルと、その上に弁当と台本が
置かれています。
その室内の雰囲気に、脳の検査を思い出します。
別室軟禁状態とでもいいましょうか。
長いこと某有名大学病院の検査を、定期的に受けています。
現役継続するにあたって大義名分が必要だと思うからです。
死ぬまでやるつもりなどありません。
隠して無理してやっているわけでもありません。
やることやって、笑って引退したいだけです。
足を引っ張りたがる残念な人はいつでもどこにでも存在します。
政治家でもない癖に政治を長長と語るような奴。
競技だけでなく、サッカーや野球のなんたるか、チーム事情や
関係ない噂話的な内部事情を持ち込んで、然も自分は通なのだと
見せつけるかのよう批評したがる奴。
掲示板や素性隠してSNSなどの水を得た魚の様に生き生きと
誰かの悪口を記している輩等等。
続けるのには大義名分が必要です。
迷惑だけはかけてはいけません。
何かあったらいけないですし、マイナーという意味でも
何かあったら叩かれる競技ですし、危険な競技だけに
やはり大義名分が必要で、そして堂堂と続けたいからです。
1年に1回か、1年半に1回かくらいの感覚で受けてきました。
何もやっていない一般成人男性と同じという診断を昨年も受けました。
その度、都内にある大学病院と、千葉市稲毛区にある放射線研究所に
足を運び、双方半日かけて検査を行います。
放射線研究所はずっと気になっていたのです。
母校敬愛学園前にある施設で、中で何が行われているのか登下校の際に
通る度にずっと、気になっていたのです。
東日本大震災があった後、新聞やテレビでその名前を見て聞いて
理解したのです。
頭の検査も中で行っています。
言葉は悪いですが、病室のような個室に半日軟禁されるようなものです。
検査の合間合間に室内から見える母校の校舎を見ながら、外から
見ていた当時の自分を思い出します。
SNSなどで人のことをドランカーだという知ったかぶりを
訴えることが出来たらいいなと思います。
早くそういう世の中にならないかなと思います。
いい歳した大人が言葉の刃物振り回してみっともない。
その前に、まず僕らのような殴り合うような商売をしている人間の
心のプライドに唾を吐くような輩が大嫌いです。
散散感動させてもらっておいて、楽しませてもらっておいて
引退したり落ちぶれてきたら迷惑かけてなくてもそう揶揄して
勝ち誇るのです。
ことキックボクシングに関しては8割は同業者の僻み嫉みでしょうが。
裸で商売している女性に対してもそうです。
そういう輩は女性に対しても性的差別するような言葉を吐き捨てる
のでしょう。
散散お世話になった癖に。
職業や性別で人を馬鹿にする、そういう輩は発想の陳腐さでカビが
頭の中に生えたような輩です。
キックボクシング界の主役の時代がありました。
全てではないにしてもスポーツニュースやスポーツ新聞までもが
僕の試合を、結果を報道してくれる時代を作りました。
「ここまで持ってきた。」
自惚れではありません。
それを否定する人は僕を認めないことによってでしか
こちらを認めることが出来ない人です。
違う競技側が喧嘩を売ってきました。
シュートボクシングの選手です。
その選手らは、人の名を使って自分のことを宣伝したがる実に
惨めな人間らです。
30年経って未だにSNSなどで蒸し返しているしつこい連中です。
「同じ球技なのにサッカーとラグビーは試合しないでしょ?」
「野球とソフトボールは試合しないでしょ?」
「そうなんだけどね。」
対戦を煽る選手に向けてインタビューで返しました。
分かっているくせに専門誌は煽るのです。
その癖、
「ラグビーとアメフトは何で試合しないんですか?」
「テニスとバドミントン、同じラケットで試合するのに何で試合しない
のですか?」
「中間のルールでやればいいじゃないですか?」
「立嶋くん、分かってるんだけどね。編集長が聞いてこいっていうから。」
その方が売れるからなのか、向こうの競技側から頼まれて
いるからか知りませんが、利用されるのだけは嫌でした。
キックボクシングという競技を利用している側に向けて
いる競技・団体にのみ反論しました。
ええ、僕が悪者になるのです。
援護射撃してくれる同業者、選手もジムも団体も、1人も
いません。
簡単です。
保身の為です。
その癖、よく云ってくれたと喜んでいるのです。
当時、キックボクシングを守った人、自分以外に思いつきません。
シュートボクシングのそれに関しては、30年ほど前のことを未だに
加害者の癖に被害者面してTwitterなどで喚いていて恥ずかしい人間です。
僕に喧嘩売った某の脇役、名前も知りませんでした。
存在も知られていないで悪口云っているのです。
30年間も。
結構恥ずかしい。
見てくれを真似して、それを自らの個性にしたがる選手は
いましたが、でも、結構僕の真似は多かったと思います。
足首のテーピングも、トランクスのフォントを使ったロゴも。
額に締める鉢巻もそうではないでしょうか。
長いこと僕1人でしたが、でも、誰かが真似
し始めて、そこからの広がりは早かったと思います。
いいのです。
真似されたくてやっているのです。
そもそも今の選手らは元が誰なのかも知らないくらいだと
思います。
こちらを否定して、パクった側がオリジナルに着替えようと
したとしても、こちらが少少気分を害するだけで、それ以上は何とも
思いません。
著書「ざまぁみろ!」にも記しましたが、始めてコンビ名
もしくはその名を、そして存在を知ったのは17歳から18歳に
かけてだったと思います。
高校1年生の学期末、学校側に進級を確認して1ヶ月間、タイへ
渡りました。
1月に敗けた相手との再戦が決まったからです。
トレーナーのチャンリットの家に住み込み、ムンスリンジムに
通いました。
1ヶ月、日本にいなくなるので「夢で逢えたら」の録画を友人に
頼んで渡タイしました。
前年、フライ級での減量で渡タイ時は「とんぼ」が流行っていました。
その時は、名良橋や他の知人に頼んだりしました。
試合を終えて、それをテレビに齧りついて見たものです。
今も、ですが、テレビに出る人と自分は別世界側の人間です。
テレビに出るようなスポーツ選手と比べると、下の下の下
くらいの圧倒的な差がありました。
キックボクサーと有名競技とでは。
事実だから仕方ありません。
著名な方に自分を知ってもらいたい、そんな図図しい感情は、
でも、その大分前から持っていて、なのでいつか、そういう気持ちが
いつも僕のモチベーションでした。
キックボクシングという競技は、中学生の頃からテレビは勿論、
スポーツニュースやスポーツ新聞ですら見かけることのない競技でした。
十代後半から20代前半にかけて、露出は急に大きくなり始めました。
積み重ねてきたことに芽が出初めてきたというところでしょうか。
「ヌードの表紙って面白くないですか?」
編集長の谷川さんに提案して、それを興行のポスターにしたら
どうだろうかと全日本キックにも提案して実現しました。
キックボクサーをもっとプロスポーツ選手の扱いとして
グレードを上げることに必死でした。
当時、「今やったら面白い。」ということを勿論考えてのことですが、
それだけではなく、時を経ていつか、こんなことをやった選手がいた
ということを企ててのそれです。
でも、社会現象にはなれませんでした。
いつか時代が追いついて、その出来事に着目される時は
来ると信じています。
そういう時の先手を打ったこと、いくつかあります。
未だに評価されていないので大したことではないまま終える
かもしれませんが。
中学卒業してタイに行くというのがことの始まりです。
次に誰かが行ったとしてもそれは、どれだけだとしても2番目です。
なので、「いつか」を意識して時代に先手を打つといったら大袈裟ですが
そんな気持ちでした。
「作ってしまった過去は後で塗り替えられない」
というのが当時からの持論です。
戻ります。
その頃、よく取材に来てくれた日本テレビのディレクターに
お願いして、「ガキの使いやあらへんで」のフリートークの観覧に
足を運びました。
楽屋に通してもらい、局の方に自分を紹介してもらいました。
和んだ緊張感、今も覚えています。
その後、NKホールでチャモアペット戦が決まりました。
今でいうと何でしょう。
例えが見つかりません。
各自のご想像にお任せします。
ガラガラの後楽園ホール、超満員にして更に大会場まで
満員にして、幾つものマスコミが取材にくるまでになりました。
既に日本代表に名を連ねた名良橋は小学生の頃からの幼馴染なので
著名人ではありますが、枠が違います。
松本さんが来るという噂を耳にしました。
試合は残念でしたが、でも、前に進んでいる気がしました。
もう一度収録に足を運びました。
収録前に通してもらい挨拶をします。
やはり和んだ緊張感とでもいいましょうか、緊張の隙間とでも
いいましょうか、心地よい空気を他人事で吸いました。
収録後、再び楽屋を訪ねました。
1994年から、いきなり金銭面での約束は変わっていきます。
1995年は更に、翌年意向はもっと、という具合に。
以来、何度も「ガキの使いやあらへんで」の収録に足を運びました。
一流の空気を吸いたくて、緊張感を味わいたくて、そうすると
まだ自分も大丈夫だと思えました。
収録だけ見て、空気を感じさせていただけたらそれで満足なのですが、
でも、その度に楽屋に通してくれます。
試合前の控室を思い出します。
緊張感のある中、ずっと些細な雑談で和んでいるのです。
ヴィンテージブームだった当時、古着の話になった時、
「これ、分かりますか?」
腰に縫い付けてあるパッチに品番が印刷されているのですが、
「分からないです。」
書いてありますよと、そのことを告げることが出来ず
分からない振りをしました。
その日、松本さんはブーツカットの517を履いていました。
僕の試合後に控室に着てくれることもありました。
その時に、ご本人に話したことがあります。
以前記した一流の空気についてや、一期一会について。
一流の空気というのは先日、一期一会は以前に記したかと思います。
その後、大きく扱われなくなってからも幾度も収録を見せてもらい
ました。
腐りかけた自分を鼓舞させる為、そして図図しいのは承知で、
一流の空気を吸って、今にしがみついていたかったのです。
引退についての相談もしたかったのですが、出来ませんでした。
落ちぶれている癖に、生きる為のアドバイスを求めるのが
図図しいのは分かります。
次第に連絡は取れなくなり、僕自身も自分自身のことで
一杯一杯になりました。
自伝に記したとおりです。
もらっていない金は沢山あるというのに連盟はスポンサーが
変わったという理由で未払いをなかったことにし、新しい
スポンサーを見つけて、でも、やはり未払は発生し、またなかった
ことになります。
数回ありました。
でも、試合は決まるのです。
あぁ、こうやって扱いは小さくなって気がついたら消えている
選手の中に自分も入るのだなと解釈しました。
1990年代後半、そんな毎日に慣れていくかのように
沈んでいきました。
息子も生まれて、落ちぶれたとはいえ自伝も出版して、
もう一度風は吹くかと思えど静かなものでした。
嫌がらせをしたような同業者の輩程、弁護士を通じて内容証明を
数名送ってきました。
話があるというので編集者と一緒に、品川プリンスホテルロビーの
喫茶店に出向くと、血相変えた過去の対戦相手が自称暴力団組員を連れて
来ました。
条件を幾つか出してきて、
「歩み寄りを。」
狂ったように復唱するのです。
恐喝はこうして行うのだなという手本を見た気がしました。
「歩み寄りというのは、お金を出せということですか?」
編集は返しました。
でも、はっきりとは口にしないのです。
口ぶりは濁して、あとはゆるい身振りで。
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キックボクサーな日常と、立嶋な日常
100戦してこれまでの減量や試合にまつわる客席からは 感じることのできないことなどを 綴れたらなと思います。 なんの参考にはならないけれ…
これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。