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親子

8月5日、とにかくずっとお腹が痛い、他の部位の痛みも薄れてしまうほどだ。 ゴハンを食べると、途端に余計に痛くなる。 お腹にしこりができているのも確認してる。 てか、めちゃわかりやすいコリコリがある。 今日は初めて柔らかくするだけのものでなく、腸を刺激するタイプの下剤を飲んだ。

8月8日、やっぱりとにかくお腹が痛い。 便が出たか出てないかは関係ないようだ。 朝起きた途端から、お腹が痛い。 ずっとお腹が張っている気がする。 薬が効いてもマシにはなるが痛みは消えない。

8月10日、1日で1番しんどい時間帯は朝だ。 朝起きたら普通、目が覚めてきたら午前中にいろいろできると思うが、今の私は朝が1番薬が切れていて、ものすごく身体・関節がこわばっていて、とにかくダルくて動きたくない。 気分も少し悪い。

しばらく実家に帰ってた。 やっぱり楽だ。 自分の家では最近料理する気になれず、簡単なものばかり食べていた。

ところで、私はこのままいけば親、特に母親に身の回りのことを世話してもらうことになる。 もちろん、看護・介護の方にも来てもらうだろう。 反対に子どもが親にするそういった世話というのは一般的に、どこかやはり抵抗もありそこまで感情も入りにくい場合が多いかもしれない。 もちろん感謝や愛情の気持ちはあるだろう。 が、それに比べて、親から子どもに対する愛情というのは本当に自分を犠牲にしてまでもと思えるほどの感情が、自然に湧き上がってくるというようなことが多いのではないだろうか。 おそらく多くの親は、子どもが生まれてきて、そのあどけない、可愛らしい姿を見せてくれてありがとうと、そういう気持ちが強く心に刻みこまれている場合が多いのかも知れない。 多くを与えてくれた、そういう思いが心に刻まれているのかも知れない。

しかし反対に、私はそれほど子どもに感情入らないですよ、というような場合も、私は別にそれはそれでいいと思う。 どうしても理由もわからないが子どものことが好きになれない、という場合もあると思う。 また、子どもによってもこの子にはどうしても辛く当たってしまう、という場合もあると思う。 それを白か黒かで、さも子どもは愛さないといけないように考え、間違っていると言い批判するのは浅はかだ。 自分には理解できない、考えられないといって、他人を評価・批判していいことにはならない。 こう考えてみてはどうだろう。 その親子はそういう関係を通してお互いに学ばせ合っているのかも知れない、と。 前世という概念が登場するが、もしかしたら前世では逆の関係だったかも知れない、と。 そして傷つけられる、無視されるとこんなに辛いんですよ、また傷つける、無視する方も葛藤を抱える場合もあるんですよ、ということを学ばせ合っているのかも知れない、と。 もちろん行き過ぎだ、と感じることもあるだろう。 いや、行き過ぎだ、と感じる出来事は現実にたくさん起こっていると思う。 でも私は以上に書いたような理由で、悲しいかも知れないけども、それは必要なことだったのかも知れない、という見方を信じている。 そうでなかったらもっと理不尽とも言える、障害を持って生まれた人間、難病にかかった人間、生まれてすぐに死んだ人間、その他たくさんのケースは、ただ運が悪いで片付けるのですか?、ということになる。 それは浅はかだ。 それは実際に自分が経験する番になったらわかるだろう。 必要だからある、というのは自然界が教えてくれている。

また、何か事件が起こった際に、人はすぐにその人が悪い、なんて奴だ、と思いがちだろう。 だが、そんな私たちが属する社会は私たち一人一人が作り上げたものだ。 私はその人だけが悪いとは思わない。 ただ先程も触れたように何らかの理由で、行き過ぎてしまった場合はある。 もはや人間の所業ではないと思われる出来事も起こっている。 詳細は省くが、それは特殊な理由も存在すると思っている。 話を戻すと、その人がそうなるように追い込んでしまった周りの環境も一因であるということだ。 そして私たちもその環境に見て見ぬフリをしてしまった場合もあるんだと思うし、私たちも周りの環境に悪い影響を与えたことも実はけっこうあるんだと思う。

とは言え、受け付けられない出来事には、受け付けられない、それでいいと思う。 私が思うのは、大きな見方もあるんだということを知ってもらって、そして何が言いたいのかと言えば、周りの出来事に一喜一憂・影響されたりせず、自分の楽しい宇宙にゆっくり浸ってほしいということだ。

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