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創作と難病 Ⅰ

指定難病である「多発性硬化症」と「下垂体前葉機能低下症」の診断を受け、2級身体障がいの手帳を受け取っています。
あまり知られていない病気、障がいですので、興味を持っていただけたらと思います。
自己紹介を含ませるつもりが、自叙伝のような長い駄文となりましたので、仔細は別稿でも投稿したいと思います。

お付き合いいただけば幸いです。
(尚、挿絵は本人の年齢、性別とは一切関係ありません)


好きなこと

好きなことを持つということが「難しい」と感じる人がいる、
そんなことを理解できたのは随分と歳を重ねてからでした。
共働きの両親の長子でしたので、保育園から帰宅してからの時間を一人で過ごすことが当然となっていました。
選択肢があったのか記憶にすらありませんが、鉛筆と広告の裏面があればできることとして、「お絵かき」をして時間を過ごしていました。

手元にあった「ウルトラマン怪獣大百科」に掲載されている怪獣を一体一体模写していたことはよく覚えています。
小学校に上がると図工の授業で絵を描く機会を得られ、無意識の積み重ねの功か、市の展覧会に提出され毎年賞をいただきました。
称賛されればより好きになりますよね。

嘘つき

自分の身体が構造的におかしい、などとは思う余地もなく、周りも、少しトロい子どもだ、くらいに見ていたのでしょう。身体的な違和感を感じてはいても、子どもの語彙力や表現では
「痛い」とか「なんか変」くらいにしか言語化出来なくて、
家族も教師も、客観的な異常を伴わないうちは子どもの戯言程度にしか
受け止めてはくれません。

成人してから分かるのですが、2つの難病とは別に、両膝の半月板が先天的に半月ではなく、円形をした「円盤状半月」でした。膝の向きや負荷によって関節にロックが掛かったり痛かったりしました。
当時の整形外科では診断が付かず、これも僕の戯言として受け止められました。
中学校の体育祭のリレーでコーナーでの踏ん張りに耐えかねて、膝が動かなくなって転びました。痛みに悶絶する僕に、教師たちからは「嘘をつくな、早く起き上がって走れ」と嘲笑を浴びせられました。
まれに手足に強い痛みや機能障害を感じても、学業や部活から逃げたいのだろうとやはり「嘘つき」扱いされました。

疎外感から、常に自分の居場所を探して、でもどこにも馴染めないような毎日でした。一人が好きで、絵本、漫画、小説などの物語が好きで、空想の世界で都合のいいキャラクターになって冒険していました。
ごく自然に自分でも物語を何かの形でアウトプットしたくなります。小学生から中学生の頃は周囲の評価も関係なく、好きに創作出来ていたので、ただただ、楽しいものでした。
四肢もまだ麻痺などなく、スポーツはともかく、自己完結する創作活動程度なら不自由は無かったのです。

個性的な生き方

思春期以降、明らかに自分より創作能力の高い友人、先輩を知るにつけ、
もっとなにか出来そうだ、とか、人を感心させたい、といった欲や向上心を持つようになりました。
一枚のイラストだけでなく、マンガ、小説、舞台脚本、短歌と、手当たり次第に「出力」してみました。自分自身で演じることもありました。

高校生の時、文芸部で詩や小説を投稿するのに自称した「麗人(れいじん)」を、未だに使い続けています。

自分の居場所を欲していた僕にとって、高校の美術部と文芸部が、ずいぶんと居心地が良い空間になりました。
振り返っても、手放しで幸福だったと言えるのはあの、短い期間だけでしょう。
その分、調子に乗っていた気もします。
当時の仲間と駅前で過ごしているとき、退勤の時間帯で電車から大勢の人が押し出されてきました。多くがスーツ姿で、日本が誇るサラリーマンの皆さんです。
”あんなふうにはなりたくないな”
社会の歯車として日本を支えているのは彼ら彼女らなのに、それを埋もれて生きる無個性と捉えていました。
とはいえ、限られた人以外とは上手くコミュニケーションとれないまま成長してきて、その先も集団の中、組織の中で立ち回る自信はありません。
自分を唯一無二の個性として活かしていくことが正解だと、言い聞かせていました。

ずっと反抗期

両親は事あるごとに「生活できてるのは親の経済力」であることを盾にして要求をします。世間体のために大学卒業の肩書や安定した生活基盤を持つことが正義でした。
両親どちらも大学受験すらしていないので、「大学からまともな企業へ」といったバブル教を盲信しているようにしか見えませんでした。
その受験を控えた高校3年の冬、自転車で帰宅途中、トラックに跳ねられました。脳挫傷で入院しましたが、長くなるので割愛します。
受験に失敗して落胆したのは両親で、僕自身は学歴に興味は無かったので次を模索するだけでした。
「こんなことなら(事故で)しんでくれたらよかったな!」
父の言葉は今でも耳に残っています。当人は覚えていないようですが。

一浪して入った大学を勝手に中退して、一先ず実家を出ることにしました。
食い扶持を得るためにイラストレーターの仕事に就きました。
が、案の定、組織内での振る舞いは周囲との軋轢ばかりでストレスを感じていました。このとき、視野に異常を感じましたが、眼科では所見に当たらず、「疲労とストレスが原因でしょう」とされました。

自分の「創作」がしたい、まあ、自分勝手な論理で一年足らずで退職し、短編映画を撮ることにしました。
急に「映画?」と感じられると思いますが、高校時代から自主制作の映像をかじっていました。
色々な大学生の合コンに紛れ込んでキャストやスタッフを募って集めました。短編とはいえ限られた時間で撮影、編集するのは勢いが必要でした。
が、それぞれの事柄はまたいつか。

アーティストだって

無職で作品創りは続きません。生活費も制作費も必要です。
自分を売り込むのに、映像制作の経験値は強みでした。
仕事は結婚式・披露宴の撮影がもっとも収入がよく、イベントやテレビのロケなどのヘルプも楽しいものでした。
今と違って、アナログなビデオテープでの撮影、編集は、機材費もかかるので個人レベルではなかなか所有できないものでした。
当時聞いた話では「放送用カメラはレンズ込みで数千万円、業務用の中級機で数百万円。編集用のシステムはメルセデスが2台買えるよ」とのことでした。
後々僕が購入したビデオカメラが200万以上したので、そんなものなのでしょう。
創作時間を確保しながら生活を維持するために、正規雇用は拒否です。
つまりアルバイトです。
若さが、まだ特権だった頃、周りにはフリーターが溢れていて、
「落ち着いたら負け」なのが芸術家の卵たちでした。

仲間を集め、映像作品、イラスト、オブジェ、詩作、音楽など興味があることは何でもやりました。
年に1回ですが、都市部のギャラリーを借りてグループでの展覧会も開催しました。
先述した「自分を活かす生き方」の実践として、スキルを身に付けそこに対価を得ることが僕のモデルケースとなりました。
「君じゃなくてはダメだ」とクライアントに言ってもらえる時はとても誇らしかったです。
イラスト、映像、文章、それら僕のスキルはすなわち自分が好きなことです。自分一人生きる程度の収入で構わず、自分のスキルが誰かの役に立ち、喜んでもらえていることが生きがいのように感じていました。

身体の変調を少なからず感じてはいましたが、ジャンプアップに夢中で、「きっと何でもない、ただの疲労だろう」と目を逸らしていましたが
月に一度くらいのペースで身動きが取れない日が出てきました。
現場拘束されない限りは自由の効くフリーランスの生活なので、幸い仕事に穴は開きませんでした。
複数の人や企業から一定の評価を得て、生き急いでも仕方のない時期でした。
「何かを創作していなくては生きている実感がない、それがアーティストって生き物だ」
そう、標榜していました。生意気でした。

でも楽しかった。

24時間楽しかった。

将来とか未来とか、可能性って言葉を否定されず、努力と結果が生活のサイクルになっていました。
組織は無理なので個人レベルで仕事を受け、デジタル化の波を利用して低コストで業務を拡げました。
フリーターからフリーランスの境目があったとすれば、名刺を作って売り込みを始めた時でしょうか。
このまま進めば理想の自分になれると信じられた頃でした。
アーティストかどうかはともかく。

目が視えない

主にはブライダルプランナーとして結婚式・披露宴を手配したり、撮影・編集したりグッズを制作したりする事業を始めました。
仕事が増えてくると、ひとりで細々とはこなしていられません。
人を雇って作業してもらうには、個人の戸建てでは周囲の印象も悪い。
主婦層が何人か決まっていたので、昼間とはいえ個人宅に出入りさせるのはよろしくないです。
というわけで店舗兼事務所を借りて、看板を出し、バスや地方ラジオに広告を打ちました。
学生アルバイトも来てもらって、次のステップを模索していました。

好きな女性もでき、顔を合わせるたび想いは募っていきました。
きっかけがあれば、先を見据えた告白も考えたりしました。

ある日、運転中に右目の奥に痛みを感じ始めました。
翌日には痛みが強くなり右目は何も視えていませんでした。
真っ白で、光や陰を感じ取ることもなく、左を閉じるとミルクの中に沈んでいるかのようでした。

ステロイド

急な片目では距離感がつかめず運転も出来ません。
親に運転を頼んで総合病院まで運んでもらいました。
眼科での診断は「視神経炎」でした。
眼球の裏から脳の視覚野に信号を送るケーブルが視神経です。
その一部が炎症によって信号の伝送を妨げているわけです。
炎症抑制といえばステロイド剤。コントロールを慎重にするべき薬剤です。
ただその特は、薬の危険性などの説明はありませんでした。
プレドニゾロン(ステロイド剤)の効果はてきめんで、数日で目が視えるようにはなりました。
ただ、1週間後には、朝から吐き気など、行動するのに枷になるような具合の悪さがつきまとい、仕事で取引先の方々にも「顔色が悪いよ」「大丈夫?」と口々に心配をいただく始末。
担当医によると、身体が慣れるのに時間がかかるということでした。
仕事に差し支えそうな日だけ飲まずにおけないかと訊ねたら、
「そんな危険なことは許しません!」と、強い口調で叱られました。
「???キケン???」
今ではその仕組や危険性も理解していますが、それまでステロイド剤とは縁もなく、そもそもその時はそれがステロイド剤とすら知らずにいましたので、担当医が突然感情的になったことに面食らった程でした。

多発性硬化症(Multiple Sclerosis)

1ヶ月ほどで薬も終えられ、今まで通り精力的に仕事をこなしていました。
しかし、3ヶ月後、今度は左目の奥に痛みが走りました。
同じ感覚なので同様に「視神経炎」だと確信しました。前回、経口薬だけで回復した経緯から、治癒に不安は感じませんでしたが、なにぶん短期間で両の目であることが引っかかりました。
眼科では処方までは同じでしたが、医師は慎重な口調で「気になることがあるから、別の病院の膠原病科で診てもらって」と紹介状を出されました。

地域では大きい部類の2つの総合病院でしたが、当時はどちらにも神経内科がなく、取り急ぎでしたから言われた通りに受診しました。
膠原病科の先生は机の上に分厚いハードカバーの辞典を開き、目的の項目を探すようにページと格闘していました。
「あ、あったあった、これですね」
文字を指し示しながら「よく調べないと判らないけど、たぶんこれですね」
大きな事典をこちらに押しやり、それを見るように促しました。
医師が調べるのに使うような辞典など、素人が初見で読んでも意味はないのですが、先生自身も「聞いたことがある病名」を記憶だよりに探し当てたふうでした。
「これだとね、治らないよ」
短く言い放たれた言葉は、短いくせに理解するのに時間が必要なものでした。
「このページのコピーあげるから」
なにか言いたいのに言葉が見つからず、そのまま帰宅しました。
なんだか雲の上を歩くような、ふわふわと覚束ない感じがしました。

~続く~

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