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夜と昼、男と女:《聖典クルアーン》「夜章」をめぐって

翻訳者の悩み

常々思うことだが、翻訳で何がわかるのだろうか。唐突に過ぎ、しかも大きすぎる問いかけではあるが、例えば、「アッラー」。神と訳すのか、それともそのままアッラーとするのか。八百万の神をもって、神とする日本語の一般的な了解の中で、アッラーを神と訳してしまったのでは、それが唯一神であるということ一つとっても、そうは、訳しづらい。だからといってアッラーをそのままにすれば、「イスラームの神」という具合に、説明を付けないと、理解はしてもらえない。しかし、「イスラームの」という説明を付けた途端に、唯一であるという、アッラーの、おそらくもっとも基本的な属性とは矛盾してしまうことになる。アッラーはイスラームの神で、それが唯一と、イスラームの教えが訴えているだけなのだから、イスラーム教徒以外にとってはそういうものという理解をしておけば十分なので、イスラームの神という理解で問題はないと考える向きもあるかもしれないけれど、そうであったのなら、万有の主としてのアッラーの在り方は、いよいよ封印されてしまって、気づきの手がかりさえ奪ってしまうことになる。

「神」や「アッラー」という言葉がすでにそうであるように、わかったようで、しかし、ちょっと考えてみると、わからない、あるいは、人それぞれが、それぞれの意味で理解してしまうような言葉を使って、しかし、人は、それで何かを通じあえたような気になる。なんとなくではあるけれど、相手の言葉の「意味」が分かると、人は、相手の言っていることがわかるような気がするものである。しかし、果たしてそうであろうか。よく引く例ではあるけれど、「アッラー以外に神はない」というイスラームの信仰宣明の際のこの言表。「ラー・イラーハ・イッラッラー」の日本語訳ではあるけれど、神の意味がそもそもあやふやな上に持ってきて、アッラー以外に神はないといってみたところで、いったい何を言ったことになるのか。それが基礎になっている信仰とはいったい何者なのか。通じたような気になりつつ、果たして本当に通じているのか。神も、アッラーの自分の理解、を超えては理解していないし、伝えてもいない。 

夜章の3つのカサム

さて、「夜章」は「夜にかけて誓う」という「夜」を引き合いにしたアッラーの宣誓(カサム)に始まる。では「夜」とはいったい何なのか。続く「昼にかけて誓う」というのも同様である。「夜」だの「昼」だのと言われても、思い浮かべるものは、まさに人それぞれであろう。結局は、読み手の解釈に任されている格好だ。本章のカサムでは、しかし、有難いことに、「昼」にも「夜」にも、どのような夜であり、そのような昼なのかも同時に降されている。

該当箇所の聖句は次のとおりである
وَاللَّيْلِ إِذَا يَغْشَى {1} وَالنَّهَارِ إِذَا تَجَلَّى {2}

これをカタカナで読み下すと、
《ワ・ライリ・イザー・ヤグシャー、ワンナハーリ・イザー・タジャッラー》となり、それの言葉の意味を区切りごとに書き下すと、

「~にかけて・夜・~のとき、闇に覆われている、~にかけて、昼、~のとき、照らし出された」となる。 

つまり、ただの昼ではなく、闇に覆われているときの昼であり、光に照らし出されたときの昼なのである。読み手の理解に方向性がもたらされる。

 

アッラーズィーは、本節の注釈において、「夜」を説明して、この二つのカサムについて、次のように注釈していた。「すべての動物たちがその寝床に戻り、人間たちが雑踏から離れて落ち着き、アッラーが肉体に休息を、霊魂に栄養を与える眠りが彼らを覆う」のが、「夜」である。夜の風景の中には、人間だけでなく、あらゆる動物たちも、そして、肉体の休息だけでなく、霊魂の滋養をも含まれている。「昼」については、「その光によって闇に隠されていた現世の中身を明らかにし、人々は糧食のために動き、鳥たちは巣から飛び立ち、蟲たちは穴から出てくる」としている。

こうした「昼」と「夜」のそれぞれについての注釈に続いて記されているのが、この世が昼だけだったら、あるいはその逆に夜だけだったらという仮定から、両者が交互に現れることの効用と福利の指摘である。「もしもこの世の時間のすべてが夜だったなら、暮らしは成り立たないし、もしもすべてが昼間だったら、休むことが許されない。しかし、福利は、その二つが交互に現れるところにある」。サーブーニーは、このことをこのカサムの叡智として、「このカサムの叡智は、昼夜の交代に計り知れない福利があるということ。もしも一生涯のすべてが夜であったなら、生活は成り立たないし、昼ばかりであったのなら、人間は休むことはできず、人の福利は混乱を来してしまう。」としている。

夜の効用

「霊」に及ぼす夜の効用については、科学的な知見は、まだそこにまで追いついてはいないが、肉体だけでなく、心に対しても夜、すなわち夜の睡眠が、健全な生活にいかに大切であるかは、様々に指摘されている。

24時間社会の拡大の中で人間の心身の健康維持は、危機に瀕している。「ヒトは、日中に活動し、夜に眠るのが本来の生物学的な姿」であり、「睡眠は、生活習慣の一部であるとともに、神経系、免疫系、内分泌系等の機能と深く関わる、生活を営む上での自然の摂理であり、健康の保持及び増進にとって欠かせない」のである。さらに、「睡眠不足や睡眠障害等の睡眠の問題は、疲労感をもたらし、情緒を不安定にし、適切な判断力を鈍らせるなど、生活の質に大きく影響し」、「こころの病気の一症状としてあらわれることが多いことにも注意が必要とされ」、「近年では、特に無呼吸を伴う睡眠の問題は高血圧、心臓病、脳卒中の悪化要因として注目され」、「事故の背景に睡眠の問題があることが多いことなどから、社会問題としても顕在化してきている」のである[1]。

 ルーフの光が十全に発散されるための必要条件が、ココロの状態が平らであることだとするのであれば、その入り口に位置するであろう情緒の安定、そしてその基礎をなす、神経系、免疫系、内分泌系等の安定は不可欠であり、改めて、夜の睡眠が身体にとっても、心、ひいてはルーフにとっても必須であることがわかる。そうした状況一つとっても、昼だけでなく夜もあること、昼の活動のために夜の睡眠休息が不可欠であること、その両者が揃って初めて人間は生き続けることできることになる。そう考えると、《彼こそが、夜と昼とを交互にした御方》(識別章62節)であり、《あなたがたのために夜と昼を供した》(イブラーヒーム章33節)したとしていることの偉大さがわかるというものだ。 

性差は越えうる

このように夜章の冒頭2節を読み解いたのであれば、そこに浮かび上がってくるのは、昼と夜とをこのような形で創造したアッラー偉大さだ。第3節では、「男と女を創造したことあるいはそれを行なった者(つまりアッラーのこと)」に誓っているが、1節と2節も、合わせてみれば、闇の支配する休むべき夜と、光に照らされている活動すべき昼が、創造されたこと、あるいは創造された方に対するカサムが、その背景、あるいは基礎に「ワマーハラカッライラワンナハール」とでもいうべき暗黙の言説が敷かれていると見ることもできそうだ。しかしながら、3節に限らず、聖典クルアーンの中には、「男にかけて」とか「女にかけて」というカサムは存在しない。つまり、昼と夜の関係のように、全体がふたつに見分けられるような種類の事柄ではないこともわかる。男と女はアッラーの創造によるものではあるけれど、夜と昼とは異なり、男でなければ女という関係性にはないのである。

この男と女についても、夜と昼のような、2者択一的に読まれる。男として生まれるか女として生まれるかはアッラーが決めることというスタンスである。が、アッラーズィーにあっては、両性具有者の存在に言及されている。

「第3の問題:男と女によるカサムは、霊を吹き込まれ最高の栄誉を持つすべての者たちによるカサムである。なぜならば、すべての動物はオスか、メスかのいずれかであり、両性具有者は、自身の中で、男性か女性のいずれかのはずである。それが証拠に、離婚の宣誓を行なうとき、男でも女でもなく、ただ両性具有者になってしまう。それは、宣誓において柔弱である。」

両性具有に対して肯定的な注釈とは言えないが、解釈の余地があることを示してくれてはいる。つまり、一般にイスラーム教において性的指向の多様性自体あり得ないと思われがちだが、LGBTへの対応は、夜章の3節を1・2節との対比の中で丁寧に読み解くことによって、聖典クルアーンにおいても不可能ではないのである。

光と闇:夜章のコントラスト

とはいえ、現実問題として、こうした読み込みを、暗記を吐き出すような形での朗誦の中で観念することは、特にアラビア語を母国語としない人々に期待するのは難しいように思われる。意味を伝えているものと言えるかどうかは、微妙なのである。そういうつもりで読むということはありうるであろう。アッラーにだって99の美名がある。アッラーと唱える度にそのうちの一つを想起し続けることは案外容易いかもしれないが、そのときに話者がアッラーとして思ったものが他の人々と共有できているかどうかは極めて怪しいなどと考えてしまう。

アッラーが、ただ在るだけの一つだけの存在ということ自体、わかったようでわからない。であるとするならば、クルアーンという聖典が伝えていることは何なのか。もちろん、これもまた、捉えようのない途轍もない問いではあるのだけれど、「夜章」には、翻訳には表れにくい、クルアーンやそれが伝えられたアラビア語ならではの特徴が垣間見えるのである。

アラビア語には、コントラストを駆使することによって意味をより効果的に、より印象的に演出する特質がある。「全称否定からの例外の指摘」、具体的にはたとえば「アッラー以外に神はない」という言い方である。「ラー・イラーハ」で神は存在しないと全否定をしてから、「イッラー」という例外を示す詞をつけて、唯一存在する「アッラー」をそのあとに添える。覆われた闇に、忽然とアッラーという言葉が現れる。「夜章」の前半は、このコントラストに縁どられていると見ることができる。夜と昼、男と女、「敬虔にして与える者」と「吝嗇にして自分の儲けしか考えない者」、「見返りを真実とする者」と「虚偽とする者」、安楽と困苦といった対照的な言葉が、光と闇が入れ替わるがごとき対照的な配置によって、読み手の意識に幾重にも畳みかける。しかも、それが一定の音韻の反復によって行われるのであるから、なおさら読み手の意識には刻まれやすい。散文と韻文の特質を併せ持った上に、視覚と聴覚にも訴えてくる。それがクルアーンなのである。 

創造の主体「ナフヌ」を見逃すな

一つ一つの章句の意味の何たるかを明らかにしたところで、それが、視覚や聴覚に訴える、それも、聖典をアラビア語で読んだときのように再現できるのかと言えば、そして、もちろん、意味の理解も、読み手の理解の範囲を超えて広がることもないにしても、不易不動のテクストとしての地位を確立できるような翻訳を行うことは、なるほど難しいと言わざるを得ない。聖典クルアーンが、他の言語に訳された途端に、聖典であることをやめてしまうのも理解できる。そこで、翻訳には乗りにくい対照性の観点から、本節の聖句の内容を縮約しておこう。

 「敬虔にして施し、見返りを真実だとする者については、究極の安楽への道を容易にする」

「自分は欲しがるばかりの吝嗇で、見返りを虚偽だとする者については、究極の困苦への道を容易にする」 

結局、平たく言ってしまえば、人生とは、天国へ行くか火獄へ堕ちるかの2者択一なのか。人々がこのコントラストの中に置かれていることを、聖典は人々にコントラストの効いたテクストで伝えようとしているということなのであろうか。

このコントラストは世界的に問題視されている分断を煽ることにはならないであろうか。それは信者と不信心者、つまり、天国に行けるはずの者と地獄に堕ちるはずの者の間に線を引き、自分たちにこそ正義がある――たとえその正義が、聖典の手前勝手な解釈によるものであったとしても――として、自己を正当化するイスラームと、その言語空間を提供するアラビア語が抱える根源的な問題である。

この二律背反的状況を乗り越える視点が、対照性に縁どられているだけのように見える、この章の前半にも含まれている。それは、対照性とは無関係の「ハラカ」の語であり、「容易くする」と訳されている元の言葉「ヌヤッシル」の主語に当たる「ナフヌ」である。ハラカの主語もまた、ナフヌであり、これは、至高なるアッラーを指す。男を創造したのも、女を創造したのも、このナフヌであり、夜を創造したのも、昼を創造したのもこのナフヌであり、さらに、天国行きにせよ、地獄落ちにせよそれらを楽にさせるのもこのナフヌなのである。

ナフヌの視点から、この聖句を読めば、二律背反のコントラストより以上に、ナフヌの偉大さが浮かび上がるはずだが、なかなかそうもいかないようだ。瀕死状態のこの星で、戦争をすれば無駄に無辜の命が損なわれることを知りながら、なお、目の前の戦争と金儲けに走るのが人間である。ここでかけているのも「ナフヌ」の視点。夜と昼のみならず、正義と邪悪のいずれをも創造し、いずれに対しても究極的な意味で見返りを与えることのできる「ナフヌ」である。もちろん、このナフヌを文字通り「われわれ」と訳してみても、日本語で、それをアッラーのことと理解する人は、ごく少数であろうし、アッラーのことだとわかったとしても、その何たるかの理解は人それぞれ。アルハムドゥリッラーヒ・ラッビルアーラミーン



[1] 厚生労働省『健康づくりのための睡眠指針検討会報告書』(平成15年3月)より抜粋。「快適な睡眠のための7か条」を提示。https://www.mhlw.go.jp/shingi/2003/03/s0331-3.html#:~:text=%E7%9D%A1%E7%9C%A0%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%80%81%E7%96%B2%E5%8A%B4%E3%82%92,%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A8%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

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