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脳死は本当に人の死か?

脳死とは


「脳死とは脳がすべての働きを失った状態のこと」を言うとされる(日本臓器移植ネットワークのHPによる)。そして、そうなってしまうと、「回復する可能性はなく元に戻ることはありません」と言い切っている。
ただし、「薬剤や人工呼吸器等によってしばらくは心臓を動かし続けること」の可能性について言及し、しかしそれも「やがて(多くは数日以内)心臓も停止します(心停止までに、長時間を要する例も報告されています)」としている。つまり、ひとたび、脳死状態に陥ってしまうと、いかなる治療を施しても回復することはなく」、「人工呼吸器などの助けがなければ、心臓は停止する」と明記している。

注意しておきたいのは、脳死といわゆる植物状態とはまったく別のものだという点だ。植物状態では「脳幹の機能が残っていて、自ら呼吸できることが多く、回復する可能性も」あるという。

「脳死は人の死」は過去の議論


日本臓器移植ネットワークのHPによれば、「欧米をはじめとする世界のほとんどの国では「脳死は人の死」とされ、大脳、小脳、脳幹のすべての機能が失われた状態を「脳死」としています。イギリスのように、脳幹のみの機能の喪失を「脳死」としている国もあります。」と「脳死は人の死」を世界の潮流と言わんばかりである。
しかし、すでに2003年の段階で、日本人の研究者により、米国においてはすでに「脳死は人の死」は過去のものであり、移植医療を支えるための「社会的構成概念」に過ぎず、医療倫理の現場ではむしろ「脳死」の本質についての議論が始まっていると指摘されている[1]。論文の発表が2003年であるから、もう20年も前の話である。

脳死宣告を受けた少年の覚醒(BBC)

これは5年ほど前にBBCが伝えたニュースであるが、まさに、親が臓器提供の承諾書にサインした翌日、医師が生命維持装置を止める寸前に、脳死状態にあった少年が覚醒したと伝えた。

全脳死の概念を根底から覆しうる、衝撃的なニュースである。「脳死が人の死」だなどと言えないことになる。脳死状態から覚醒した事例があるということはつまり、これまでも少なからぬ命が「全脳死」の名のもとに、奪われてしまった恐れが出てくる。しかし、実際には、死人に口なし。確かめようがないため、誰も全脳死を疑わない。結局、臓器移植のための全脳死になっている。

日本の法では臓器提供希望者のみが「脳死」で亡くなる

「日本では、脳死での臓器提供を前提とした場合に限り、脳死は人の死とされます」と、臓器移植ネットワークのHP。「臓器移植に関する法律」(1977年)では、その第2条に「死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の移植術に使用されるための提供に関する意思は、尊重されなければならない。」と提供者の意思の尊重が基本理念の一つとして掲げられている。まずは大原則として「意思尊重」。
「死」についての直接的な規定はなく、臓器摘出とのかかわりで、第6条に
臓器は「死体(脳死した者の身体を含む。以下同じ)。から摘出することができる」とし、第6条の2項に、「前項に規定する「脳死した者の身体」とは、脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された者の身体をいう」と定めている。

移植の必要性と…

このように、日本では法律上、臓器提供の意思が表明されている場合に限り「脳死」が人の死になり、「心臓死」と併存するというダブルスタンダード状態になっている。奇しくも「社会的構成概念としての脳死」を先取りしたような形になっている。しかしながら、たとえば中学校教育の現場では、臓器提供ありきの「脳死は人の死」論が多くの生徒たちによって当然のこととして受け入れられるようになっているという[2]。臓器移植推進論によって、死の本質への気づきや探究の機会が奪われた格好である。
「脳死は人の死」は過去のものであるという議論が専門家の間では共通の認識になっているということも知らされないまま、臓器移植の必要性の側からだけ人間の死が捉えられ、脳死状態からは覚醒も回復もあり得ないとする断定に、やんわりと拒絶を拒む同調圧力と人間の奢りを感じてしまう。

[1] 会田薫子「社会的構成概念としての脳死:合理的な臓器移植大国アメリカにおける今日的理解」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jabedit/13/1/13_KJ00004388357/_pdf/-char/ja

[2]相模原市立某中学校の二年生理科の討論授業

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